新撰組局長・近藤勇の最後の地 | dai4bunkuのブログ

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新撰組局長・近藤勇の最後の地

 

 慶応4年(1868年)に板橋刑場で処刑された近藤勇。その最後の地である「板橋・滝野川」には近藤勇都心撰組隊士供養塔が設けられています。また遺体が埋められたとされるお墓は三鷹の龍源寺内にあり、近くには近藤勇が産まれた生家跡もあります。そして遺髪があるとされるお墓は会津若松の天寧寺にあります。

 

近藤勇の墓

 

 

 慶応4年(1868)、流山で捕らえられた新選組局長の近藤勇は、当時板橋宿に置かれていた新政府軍の本陣に送られ、その後処刑されました。その近く、現在の板橋駅東口前にこのお墓は立てられています。近藤勇の墓は、新選組隊士・永倉新八が発起人となり作られました。函館で戦死した副長・土方歳三をはじめ百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています。

 

 近藤勇の最期とは?処刑までの経緯

 板橋・滝野川は近藤勇の最期の地になります。新選組局長である近藤勇は、慶応4年(1868年)1月3日に旧幕府軍と新政府軍の間でおきた鳥羽・伏見の戦いで肩に鉄砲傷を負います。

 

 この傷が元で新撰組の指揮を取ることができなくなった近藤勇は指揮を土方歳三に任せ江戸に戻ります。そして同年3月、旧幕府の命を受け甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を編成して、甲府へ向かう時に、名を近藤勇から「大久保剛」と改名します。

 

 その後、慶応4年3月6日に勃発した板垣退助の軍勢と近藤勇の軍勢が戦った世にいう「甲州勝沼の戦い」においても敗退し、この直後に「大久保大和」と更に改名します。

 

 そして、現在の東京都足立区綾瀬四丁目である五兵衛新田で兵を集め、4月には下総流山に屯集しましたが、また敗戦。そして投降します。

 

 捕縛された当初は「大久保大和」と名乗り、徳川家公認の治安隊であると主張しましたが、伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった元隊士の「加納鷲雄」、「清原清」が近藤勇であると見破られて板橋宿で4月25日に斬首刑になりました。

 

 ちなみに首は京都の三条河原でさらし首されましたがその後の首の行方は不明と言われています。もしかしたら新選組元隊士が持ち去った!?ということも考えられます。

 

生家跡には掲示板があり、当時の生家と思われる写真も載っています。

生家跡の隣には近藤神社も建てられています。

 

        龍源寺内には近藤勇の墓を示す石碑と天然理心流の石碑があります。

 近藤勇が板橋で斬首刑になった後、首のない状態の亡骸を引き取り、この龍源寺に埋葬しました。

 つまり近藤勇の遺体があるのがこの龍源寺になりますので、正真正銘のお墓です。板橋処刑場はあくまでも供養塔になります。

 

 板橋処刑場から三鷹の龍源寺まで現代だと20km以上離れていて、約4時間以上かかります。当時は人目につかないように夜間に運び出した経緯があるので、時間的にもかなりギリギリだったのではないでしょうか。

 

会津若松の天寧寺は遺髪が埋葬された場所!

会津若松にある天寧寺は近藤勇の遺髪が埋葬されたといわれるお墓です。

 実はこのお墓は、当時新選組と主従関係にあった京都守護職を務めた会津藩主の松平容保に頼み、土方歳三が建てたとされています。

 

左が近藤勇のお墓で右が土方歳三のお墓です。戊辰戦争終結後に建てられました。

 

日本全国には3つも近藤勇のお墓が存在しています。

  • 首のない胴体が埋葬されたとされる三鷹にある龍源寺
  • 遺髪が埋葬されたとされる会津若松の天寧寺
  • 永倉新八が発起人となり建てた板橋の供養塔

 立場は違えど、同じ日本人同士が未来のために互いの信念に基づき戦い、そして、散った・・・

 

数奇な運命をたどった新選組局長、近藤勇のお墓の物語。