爺様の話:関 寛斎・佐藤泰善・浜口梧陵 | dai4bunkuのブログ

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北海道陸別町開祖(関 寛斎)と順天堂創始者佐藤泰善・「稲村の火」のモデル・ヤマザ醤油当主濱口梧陵

 

=爺様がまだ若かりし頃、十勝管内本別町にいたことがある。隣町が寒さと夜空の綺麗な陸別町である。公民館等を巡ったとき、陸別町開祖 関 寛斎を知ることができた。その生きざまに感動を得た。=

 

  関寛斎は天保元年(1830年)上総国山辺郡中村(現千葉県東金市)の農家に生まれた。4歳で母に死別し、母の姉の嫁ぎ先である在野の儒学者関俊輔に預けられ、関家の養子となる。
 関 俊輔は農業のかたわら私塾「製錦堂」を主宰していた。

 この塾は門弟数百人を数え村塾のレベルをはるかに凌駕し、その名声は近隣に聞こえて、「富貴にして人に屈するよりは、貧賎にして志をほしいままに如かず」と謳われた。


 自らは清貧に甘んじながら、寺子屋にも通えない貧家の子供たちにも教育と心配りを忘れず、世のため人のために尽くすことこそが人の生きる道だと説く養父俊輔の生き方と教えは寛斎の人生航路に大きな影響を与えた。


 養父俊輔の勧めにより、18歳で佐倉の「順天堂に入門する。貧しい農民の子である寛斎は、師である佐藤泰然の書生となり下働きをしながら医学を学んだ。(各地を廻って牛痘接種をしていたと日記に記載している。)

 佐藤泰然記の後へ続く。

 

佐倉順天堂創始者 佐藤泰然、蘭学を志す

 泰然が蘭学を志したのは20代後半、時代は1824年(文政7)シーボルトが長崎に鳴滝塾を設け蘭学志望者が急速に増え、蘭学が隆盛になる兆しが現れた時期であった。

 泰然はのちに刎頸(ふんけい)の友となる松本良甫(りょうほ)を誘って蘭方医足立長雋に入門。

 さらにシーボルトの弟子高野長英に入門してオランダ語を学ぶが、いっそうの蘭学修得を目指して、長崎留学を決意した。

 

 留学にあたって伊奈家の禄を離れて姓を田辺から母方の実家の姓和田に改め、妻子を父藤佐(とうすけ)と義兄山内豊城に預けて1835年(天保6)長崎に出かけた。

 

 泰然は天保6年(1835)1月5日に江戸を発ち、3月10日に長崎に到着。通詞末永甚左衛門方に寄寓している。しかし、この時期の長崎は、シーボルト事件のためオランダ人医師の来日はなかった。

 

 吉雄、楢林などの著名な通詞一族がオランダ医学塾を開き、留学生はここで学んだ。

 泰然は蘭館長ニーマンについて学んだと伝えられる。また、佐賀藩医大石良英と楢林栄建から西洋医学や蘭書の読み方などを学んでいる。

 泰然はまた長崎でたくさんの蘭書を購入した。

 長崎にはシーボルトがジェンナーの種痘法を伝えていたが、痘苗が腐敗していたために牛痘接種はできなかった。

 長崎ではジェンナーの種痘法に先立つ人痘接種が中国から伝わり、行われていた。泰然はジェンナーの種痘法を本で学び、人痘接種法を学び、それを応用した方法を習得していた。

 

 泰然の次男良順が4歳の時に受けたのはこの種痘であった。

 泰然が江戸から下総佐倉に移った理由は特定できないが、佐倉藩主が蘭癖大名といわれた堀田正睦(まさよし)であったこと、家老の渡辺弥一兵衛の誘いがあったのも確かである。泰然は移住を決意すると、ただちに佐倉の町外れに土地を求めた。

 1843年(天保14)春である。その契約書の署名には和田とともに、佐藤泰然とある。父祖の姓、佐藤を名のり心機一転を図ったのだろう。

 佐倉へは8月に移り、10月に塾の名を順天堂と定めて開塾した。残念ながら、順天堂には門人録が残っていないため、このころの塾生の名はわからない。

 また、1854年(安政元)の順天堂の療治定(治療費)には帝王切開、卵巣水腫開腹術など他に例を見ない病名が載る。外科に優れた順天堂の伝統がここにみられる。

 

関 寛斎続き

 嘉永5年(1852年)に養父俊輔の姪、君塚アイと結婚。安政3年(1856年)、佐藤泰然の推薦により醤油製造の地、銚子で医院を開業した。
 

 寛斎の医院開業に関わったヤマサ醤油当主、浜口梧陵の依頼で江戸の種痘所に赴き、にコレラの予防法を学び、銚子のコレラ防疫に業績をあげ、その成果を認めた浜口梧陵の援助により1860年(万延元年)、長崎に留学、ポンペのもとで1年間学び1862年(文久2年)長崎から銚子に戻る。


 梧陵は寛斎にさらに長崎で学ぶように勧めたが、1863年(文久3年)徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。後に寛斎は梧陵の勧めに従わなかった事を後悔する。


 1868年(明治元年)戊辰戦争に軍医として従軍、江戸へ,ついで奥羽出張病院頭取を拝命。

 

 奥羽戦終結後徳島に帰り,1869年(明治2年)徳島藩医学校を創立し自ら校長に就任する。1873年(明治6年)禄籍を奉還し,徳島住吉村に開業して翌年には東御殿跡(現在の徳島一丁目)に移る。

 

 爾来一開業医として徳島で30年間地域医療のために尽くし、庶民に「関大明神」と慕われた。金持ちには往診に駕籠の用意を要求し診療費も安くなかった。一方、貧しい人達からは診療費を取らなかった。


  1902年(明治35年)、寛斎夫婦は、結婚50年の金婚式を四国徳島で挙げた後に、はるか北の大地北海道へと旅立った。時に寛斎72歳、妻アイ68歳。
  

 すでに北海道には、1882年(明治25年)に四男の又一が、札幌農学校(北海道大学の前身)に入学していた。1884年(明治27年)には、石狩郡樽川殖民地原野第七線20ヘクタール(町歩)の貸付を受け、樽川の関農場は最大108ヘクタールにまで拡大したが、この農場は入植した小作人たちにまかせた。
 

 又一が札幌農学校を卒業すると、さらに北海道の奥地、十勝・釧路にまたがる、陸別原野(斗満原野を含む)1377ヘクタールの貸付けを受ける。
 

1906年(明治39年)には、石原六郎、神河庚蔵、三木興吉郎ら徳島関係者の貸付地も含め、開拓許可面積は7203.69ヘクタールに及んだという。うち、1011ヘクタールが同42年、寛斎の息子、周助・餘作・又一名義で成功付与を受けている。
 

 冬季には気温マイナス30度以下も珍しくない厳寒の斗満(現陸別町)の地で、寛斎は周辺住民に施療しながら開拓に携わり、入植10年後の1912年(明治45年/大正元年)齢82歳で没した。
 寛斎はトルストイに心酔しており、小作人に農地を解放することを希望するも家族に反対され、苦悩の末に服毒自殺した。

 

 人並みの 道は通らぬ 梅見かな   (関寛斎が徳富蘆花に贈った句)

 

“壮年者に示す”

 いざ立てよ 野は花ざかり 今よりは 身の結ぶべき 時は来にけり 八十三歳老白里

 

“辞世”

 

 諸ともに 契りし事も 半ばにて 斗満の里に 消ゆるこの身は  八十三歳老白里   

“死後希望”

 

 我身をば 焼くな埋むな そのまゝに 斗満の原の 草木肥せよ  八十三歳老白里

 

“結婚50年祝賀に近親者知人に 扇面の書”

 

人生百歳を期す 七十これ中途なり 老健しばらく怪しむをやめよ 天真我が躯(体)を保つ

 

<裏面 あい夫人の歌> 

 

老ふたり そろいて年も みちのくの こがねのいわい するぞたのしき

 

<前同 染ぬきの風呂敷に>

相生の 松はときはの 色かへず ちぎる五十の 春ぞうれしき 

                明治三十四年四月 七十二老 白里寛斎 

 

 参考資料 「陸別町公民館 昭和59年改訂発行 郷土室案内書」

=阿波の藩主 蜂須賀茂韶

は、後に侯爵となり空知管内雨竜町の蜂須賀牧場の“不在地主”。

 

  陸別町青竜山に「関寛翁碑」~昭和11年建立。題字は、徳富蘇峰 碑文 佐倉順天堂病院長 佐藤恒二先生 建碑賛助会員 蜂須賀 正をはじめ、順天堂関係、徳島・千葉・東大・北大関係者等九十名が賛助員 =

 

 

関寛斎を支援した濱口梧陵

浜口梧陵は広村(現在の広川町)で分家濱口七右衛門の長男として生まれ、12歳の時に本家の養子となり、銚子での家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。


 安政元年(1854年)、梧陵が広村に帰郷していた時、突如大地震が発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲いました。梧陵は、稲むら(稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、この火を目印に村人を誘導して、安全な場所に避難させました。(防災絵本:「稲村の火」の実話)


 また津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。

 

 梧陵は、他の分野においても優れた才能を発揮しました。教育面では、江戸時代末期に濱口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や学業などの指導にあたりました。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校になっています。

 

 明治4年(1871年)に梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任したのをはじめ、明治12年(1879年)には和歌山県議会初代議長に選任されました。議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開しました。


 明治18年(1885年)梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました

 

 

爺様:以上関 寛斎にまつわる人々との関連も併せて、ご紹介しました。