爺様:今まで、幸福には二つの幸福があり、相対の幸福と絶対の幸福である。と説明してきました。相対の幸福には三つの弱点があります。
① どこまで求めてもキリがない
② 何を手に入れても 喜びは続かない
ということでした。
今回は残り三つ目の急所・弱点の説明です。
出典:長南瑞生 著 生きる意味109 一万年堂出版
相対の幸福の弱点③
死んでいく時には、総崩れになる
相対の幸福の最大の急所は、死んでいく時には、一挙にすべてが壊滅してしまうということです。死ぬ時に。相対の幸福が何の役に立つでしょうか。
もし、あなたが、あと一週間の命となった場合を想像してみてください。
人間ドックで異常が見つかり、精密検査をしてみたら、現代医学では治療できない難病と分かります。死ぬまでの制限時間はあと七日間。
「何でもっと早く見つからなかったんだ!」という無念の中、病室でついていたテレビを見ると、発表された宝くじの当選番号が、手持ちの宝くじの番号と一致しています。
「やった三億円当った!」
と喜べるでしょうか。
「なんてこった・・・」
と、より一層残念な気持ちになってしまいます。
そんな時に限って、この間描いた絵が、全国絵画コンクール一般の部で金賞に輝いたという朗報が入ります、
友達から、
「すごいじゃん」
とうらやましがられても、
「そんなの全然うれしくないよ!」
と怒りたくなります。
ちょうどその時、バタンと病室の扉が開いて、恋人がうれしそうに入ってきます。
「喜んで、結婚できることになったよ」
「え・・・・、何でこんな時に・・・」
より一層、不安が際立ちます。
死を前にすると、それまで実感のあった相対の幸福のすべてが、色あせて喜べなくなってしまうのです。
あなたなら、これらを心から喜べそうですか?
実際に病気で残りわずかの命となった時、普通は大変な肉体の苦痛も伴いますから、こんな軽い調子ではありえませんが、このことが現実におきた時、それまでとは、心が全く変わってしまいます。
その元気な時とは全く違う、臨終を目前にした心境を書き留めておいてくれた人があります。10年間の闘病生活のすえ亡くなった、東大教授の岸本英夫です。
岸本英夫は、東大で学位を受け、44歳で東大教授となるエリートコースを歩みました。ところがその7年後、スタンフォード大学に客員教授として滞在中、癌の宣告を受けたのです。
大手術の結果、一度は癌をすべて摘出したはずでした。それが4年後、再発したのです。一応摘出はしましたが、次はいつ癌が活性化し命を落とすか分かりません。いつ爆発するか分からない不発弾を抱えて生きているようなものです。その死に直面した心境を「死を見つめる心」にこのように書いています。
死自体を実感することのもたらす精神的な苦しみが、いかに強
烈なものであるか、これは、知らない人が多い。いな、むし
ろ、平生は、それを知らないでいるからこそ、人間は幸福に生
きていられるのである、しかし、死に直面したときには、そう
はいかない。
(「死を見つめる心」岸本英夫)
元気な時は「死んだら死んだ時さ」と思って、相対の幸福をかき集めるのに必死になっていますが、いざ死に直面すると、相対の幸福は全く問題にならなくなってしまいます。そんな相対の幸福を、傷つきやすい、見せかけの幸福だと書き残しています。
人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、傷つきやすい、みかけの幸福である場合が、おおいようであります。それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、それを死に直面した場合にたたせてみると、はっきりします。
たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件は、たしかに、幸福をつくりだしている要素であります。また、肉体の健康とか、知恵とか本能とか、容貌の美しさというような個人的条件も、幸福をつくり出している要素であります。
これが、人間の幸福にとって、重要な要素であることは、まちがいはないのであります。だからこそ、みんなは、富や美貌にあこがれるのでありまして、それは、もっともなことであります。
しかし、もし、そうした外側の要素だけに、たよりきった心持でいると、その幸福は、破れ
やすいのであります。そうした幸福を、自分の死と事実を前にたたせてみますと、それが、はっきり、出てまいります。今まで、輝かしくみえたものが、急に光を失って、色あせたものになってしまいます。
お金では、命は、買えない。社会的地位は、死後の問題に、答えてはくれないのであります。
(「死を見つめる心」岸本英夫)
今まで輝かしく見えた相対の幸福は、死の前に立つと、急に光を失って、色あせたものになってしまうのです。死ぬ時には何の意味もなかった」と、ミケランジェロも、松尾芭蕉も、モネもピカソも、みんな言っていたとおりです。
仏教ではこのことを、こう教えられていまうす。
まことに死せんときは、予ねてたのみおきつる妻子も財宝も、我身には
一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三途の大河
をば、唯一人こそ行きなんずれ。
(「御文章」蓮如上人)
「まことに死せんとときは」とは、あなたがいよいよ死んでいく時は、ということです。
「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、どんな人も死を免れることはできません。死はあなたを待ち受ける100パーセント確実な未来です。
「予ねて」とは、今まで。
「たのみおきつる妻子も財宝も」とは、これまでたよりにし、心の支えにしてきたお金や、財産、家族をはじめとする、相対の幸福のすべてです。それが何であるかは人それぞれですが、誰しもがこれが生きる意味だと思っているものです。そんな今までたよりにして生きてきた幸せのすべてを。ここで「予ねてたのみおきつる妻子も財宝も」と言われているのです。
「わが身には一つも相添うことあるべからず」とは、元気な時はたよりになるのですが、死ぬ時は、どんな愛する家族もついてはきてくれません。
どれだけお金があっても、死んでいく時は一円たりとも持ってはいけません。手に入れた物も、成し遂げたことも、地位も名誉も何一つ、明かりになるものはありません。全部この世に置いていかなければなりません。
あれほどのことをした豊臣秀吉でさえ、辞世には
露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
(豊臣秀吉)
と詠んでいます。
「我が身」というのは、秀吉自身です。とても低い身分からスタートして日本中を駆けめぐり、才能と努力でついに天下統一、歴史にその名を刻んだ英雄です。そんな彼の人生も、「露と落ち露と消えにし我が身かな」。夏の朝、草の上できらきら光る朝露が、日が昇る頃にはつるりと落ちて消えてしまう。そんなはかないものであったと、その臨終の心境を告白しています。
「難波のことも夢のまた夢」の「難波」というのは、大阪のことですから、天下を取り、大阪を中心に極めた栄耀栄華も、死んでいく時には。夢の中で夢を見ているような、はかないものでもでしかなかったと、寂しくこの世を去っています。
死ぬのはまだ先だと、目の前の欲望にかられている時は現実のように思えても、最後、自分が死ぬ時には、夢のまた夢と消えてしまいます。結局、今まで必死で成し遂げたことも、すべてを置いて、たった独りで真っ暗な後生へと旅立っていかなければなりません。
このよういに、相対の幸福は、生きていくうえでは必要な幸福なのですが、最後、死によって完全に崩れ去ってしまうのです。
では、二種類ある幸福のうち、もう一つはどんな幸福なのでしょうか。
それが、絶対崩れることのない、「絶対の幸福」です。
これは名文の誉れ高い、「歎異抄」では、「摂取不捨の利益」と記されています。
「摂取不捨の利益」の「利益」とは、幸福のことです、
「摂取」とは、おさめ取る、ということですから、完成があるということです。完成があるから、大満足できるということです。
「不捨」とは、捨てず、ということですから、変わらないということです。変わらないから大安心できるということです。
大安心。大満足の幸福を「摂取不捨の利益」といわれ、これを今日の言葉で、「絶対の幸福」と呼んでいます。たとえ死によって、
相対の幸福すべてに裏切られても、人間に生まれてよかった、この身になるための人生だったのかと、心から安心満足できる幸福があります。
仏教には、キリがなく、続かない、不安や不満のなくならない相対の幸福と全く異なる、この絶対の幸福の存在が説かれています。文学者も心理学者も哲学者も、誰も分からなかった本当の生きる目的は、この絶対に崩れない、「絶対の幸福」になることだと説かれているのです。
では、一体、どうすれば「絶対の幸福」の身になれるのでしょうか。
6章 まとめ
● すべての人は幸福を求めて生きていますから、生きる目的も。一応は「幸福になるため:と
いえます。ところが、どんなに努力しても、なかなか幸せになれないのは。幸福に二つあるこ
とを知らないからです。
● 「相対の幸福」・・・・誰もが今まで求めていた、比べて分かる幸福。これには、幸せにな
れない三つの弱点があります、
1 どこまで求めてもキリがない
2 喜びが続かない
3 死んでいく時には、総崩れになる
● 「絶対の幸福」・・・・「歎異抄」に「摂取不捨の利益」といわれる。
仏教では、本当の生きる目的は、完成があり、死によっても崩れない、大安心大満足の絶対の
幸福になることだと説かれています。
次回から「絶対の幸福」について説明していきましょう。
どんな人でも、生死の一大事を解決すれば、「絶対の幸福」になれる
「死」は、私たちの人生に、最も大きな影響を与える大問題であるから、仏に帰依する僧ではない凡夫たる私たちはどんな解決を見出すべきなのか、難しい最大の難問でしょうか。
著者の解決方法を知りたいものである。爺様もこの章はあえて読んでいない。その存在を半信半疑だからである。その領域に入る恐ろしさもあるから。