成蹊の校歌はあの「海ゆかば」の作曲者 信時 潔
作詞 志田 義秀
故渡辺和子シスターの調べから、成蹊学校にまでつながった。校歌は「海ゆかば」の作者信時潔であることが分かり、感激し由来まで探求してしまった。
また、成蹊の「心力歌」と「凝年」に関心が広がり、心力歌の第1章から第8章までも紹介させて頂きました。
1927(昭和2)年、浅野孝之旧制成蹊高等学校長が東京音楽学校に作曲を依頼し、志田義秀作詞、信時潔作曲による「成蹊の歌」ができあがりました。
その後この歌は式典その他の席上で歌われるようになり、校歌となりました。原譜は現在、学園史料館に保存されています。
信時潔は有名な「海ゆかば」などの日本歌曲の作曲家で、1923(大正9)年作曲法研究のためドイツに渡り、帰国後、1923(大正12)年には東京音楽学校教授に就任し、多数の有能な音楽家を育てあげました。
志田義秀(素琴)は松尾芭蕉の研究家で、成蹊学園の創立者中村春二の東大国文科時代の親しい友人でした。1925(大正14)年旧制成蹊高等学校創設と同時に教授として就任しました。素琴の句碑がキャンパス内にありますが、これは氏の学徳を慕う人々が発起人となって1941(昭和16)年に建てられたものです。
· 一、土の育くむ 武蔵原野の林
空を限りて 秩父連峰走る
聞けよ吾等が 心力歌の生命
この地この歌 吾等讃えん
その名 おお成蹊
· 二、昨日の吾を 超えし輝き尊し
吾が野に萌ゆる 草の語るに聞かずや
白光の空 高くそそる筑波と
共に向上の 吾等の姿
その名 おお成蹊
· 三、宇(いえ)は大なり 母校成蹊の宇(いえ)
一つに集ふ 族(うから)吾等の園の
愛の象徴 井の頭の泉よ
陽は野の上に 吾等の上に
その名 おお成蹊
成蹊の名の由来
「桃李ものいはざれども、下おのづから蹊を成す。」
成蹊の名は、『史記』の作者司馬遷が「李将軍列伝」において、李廣の人物を讃えるために引用したことわざ「桃李不言下自成蹊」に由来しています。
桃や李(すもも)は、ものを言うわけではないが、美しい花を咲かせ、おいしい果実を実らせるため、自然と人が集まり、そこに蹊(こみち)ができる。
桃や李は人徳のある人のたとえで、優れた人格を備えた人のまわりには、その人を慕って自然と人が集まってくる、という意味です。
海ゆかば
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ
(長閑には死なじ)
『海行かば』(うみゆかば)は、日本の国民歌謡の一つ、歌曲、合唱曲。特に大東亜戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)。
海行かばの出典は大伴家持の短歌
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇御祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女の童児も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば
大来目主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み
爺様:出典はインターネット百科事典、渡辺錠太郎伝、置かれた場所で咲きなさい。成蹊学園ホームページ等

