爺様の話:明日16日は、志村鉄一碑 慰霊祭 | dai4bunkuのブログ

dai4bunkuのブログ

爺様会長からのお知らせ、日々の思い、期待を込めての意見等を
つぶやきます。町内会ホムページ http://dai4bunku.sakura.ne.jp/

 

志村鉄一碑顕彰保存会主催の慰霊祭 

 

毎年、盂蘭盆の8月16日、TSUBAKI札幌ホテルに隣接する豊平川緑地に建つ「札幌開祖志村鉄一碑」の慰霊祭を挙行している。

 志村の慰霊祭が行われるようになった経緯に付いて説明

 

 

 

 

参考資料1

 

 昭和62年8月16日、慰霊祭において当時碑保存会顧問 高木唯雄氏が挨拶(講演)した内容を聴講していた一般市民が録音、テープを起こして文章化し札幌市文化資料館(現 札幌市公文書館)に提供されたものの写しを歴史研究家中川昭一氏が頂いた文書である。

 

札幌開祖 志村鐡一翁について

 

 私は、ご紹介のありました高木であります。

 札幌開祖、志村鐡一翁につきまして、歴史の歩みを御紹介させて頂きます。

※安政4年、時の石狩(原文 調査役)調役 荒井(原文 金介)金助の招きに応じ、幕命により、豊平の渡守兼駅逓となり現在の2条通りの突き当り辺に宿舎を建て、旅客用の寝具膳椀等20人前を支給され、志村親子3人が入植、間もなく、志村一人では寂しかろうとの思いやりから、亀谷氏の従者、茂八に対岸即ち、中央区に茂八親子3人と居候の三太郎(原文 三平)爺さんの計4人が志村鐡一の助手を申し付けられ、計2戸7人が札幌開拓の祖で最も古い先住民あることは皆様が御承知の通りであります。

 

 以来、安政、万延、元治、文久、慶応、明治、大正、昭和と年を重ねて今年は130年目の大きな節目を迎えた訳であります。

 

 この節目のお祭りと志村翁の労苦と130年の永い歳月を振り返り、教育委員会文化資料室等の皆様の御協力を頂き、他多数のマスコミ、地元有志の協賛を得て、本日ここに祭典と法要を兼ねた式典を催すことが出来ました。

 

 誠にせん越ではありますが、志村鐡一碑、吉田茂八碑の顧問を仰せつかり、多年お世話をさせて頂いております私、高木唯雄に少々時間をいただき今昔の移り変わり申し上げて法要とし、開拓130年目を迎えて、2戸7人から今や158万の日本の5大(原文 制令)政令指定都市に名実共に成長した今昔を振り返ってみたいと考えます。

 

 現在の5号線を札幌新道と呼び36号線を千歳街道と申しまして、往来する旅人のネックとなっていた豊平川は、支流が蛸の足のように広がり、豊平と対岸の間に大きな中州があり、高田別院の前まで支流があって、この中州に太い丸太を立て豊平側からと中央区側からコクワヅルをつなぎ合わせて丸太に結びつけ、このコクワヅルをたぐって渡し舟で旅客を中州まで渡し、大声で対岸に連絡して互いに旅人の受け渡し行い、明治4年木橋が架けられるまで渡し守は居りましたが大水が出る度に木橋は流失したので事実上は(原文明治6年ころ)7~10年ころまで渡し守は残されていたと古書にあります。

 

 その後、護岸工事も整備され大正13年鉄橋となり、昭和41年現在の橋となり昔を偲ぶよすがは何処にも見当たりません。

 

 志村鐡一はその後明治維新政の官吏が幕府を滅亡させた薩長の連中であった為、反骨精神の強い彼は、命令に素直に服せず、一時罷免され、その子が改めて任命されたり亦、その後妻子を失って孤独の不満やる方なく酒でうさ晴らしをして、時にはけもの道をさ迷って定山渓に定山坊を尋ねたり、汗して切り開いた豊平2条~3条辺りの畑地を初代阿部与之助さんに買い取って貰い

 

 又、渡し守をやめてから流送してきた原木の陸揚げの手伝い等をし、最後は宿舎のあったあたりに掘立小屋を立て、一人で住み猛吹雪の夜に往生したと、今は故人となられた阿部トヨさんが初代阿部与之助さん夫婦から聞かされたと、私に話して下さいました。

 

 この間、(原文 望卿)望郷の愛恋に涙して、どぶろくを一人で飲み、愛刀を引抜いて紫電一閃(原文 卿愁)郷愁を切りウップンを晴らし孤愁に耐えました。

 

 亦、幕政時代日本一と称する剣客、明智佐馬之助が何人かの友人と一緒に翁を尋ね試合を申し込んだが幕吏なので断った。

 

 翌日宿代を払わず立ち去ろうとしたので、請求した翁に、「泊ってやったのを有難いと思え」と、数貫目の鉄棒を振り回してあばれたが、志村翁にたたき伏せられ「日本は広い、恐れ入った」と宿代を支払って立ち去った等のエピソードがあります。

 

 前人未踏の樹林は、蒼穹を仰げども見えず、まばらな旅客の暇にはエゾ鹿・野兎を追い宿舎のまわりを切り開いて、秋ともなれば遡上する鮭を手掴みで等して明け暮れを送り、誰一人の看護する者とて無く昇天した翁には親族も見当たらず、後年※同じ信州出身の伏見稲荷神社、野村宮司が不遇の中で世を去った志村は不憫であるとの事で現在の碑文を大正10年現在の2条通り堤防に建立、豊平川河川課より13坪敷地を無償で貸し与えられたと聞いています。

 

 その後、碑文の真向かいに住居した(原文 福井志乃ぶ)福井 忍さんが経王寺さんに頼み毎年8月16日に供養を続けられ、私が現在に移転したので事情の説明を受け 亦福井さんの懇請もあり、昭和26年から志村講を造り、主に1分区(町内会)の有志と私の知人達に会員となって頂き、私が会長となり、お祭りは30人~40人で、他は経王寺さんの方々がウチワ・タイコをたたいてお参り、直会等は総て私の家で現在地に移転するまで行い、現高橋会長にお願いして志村鐡一碑保存顕彰会と名を変え盛大に幅広く法要が行われる様になり碑文建立67年(※注〉平成29年(2017年)で107年目)のお祭りが本日であります。泉下の翁はいか程か喜んでおられるでしょう。

 

 又対岸には吉田茂八翁の碑文も遺族の熱心な懇請に動かされ、私は5ケ年の準備期間を費やし、ついに現地に板垣武四市長の直筆で札幌開祖吉田茂八碑が建立され、両渡し守は豊平川をはさんで向い合って対面、7月21日法要を終わりました。

 

 130年前に2戸7人と名もなき先住者の蒔いた種は立派に実を結びました。

 その過程を文化資料室の(原文 植西)上西さんや教育委員の皆様にお聞きした事を少々お話して参列下さいました皆様方の参考の一助と致したいと存じます。

 

 明治と年号が改まり、島判官・岩村判官、又 道区長正式には道政区長兼署長津島氏が任命され、その後は札幌他9群々長兼札幌区長と称され、明治11年頃第一大区長となり明治32年頃までその名が残り、札幌市となったのは大正11年、翌12年正式に初代市長高岡さんが任命され、それまでの前任者は札幌常駐でなかった様で、この間6名の区長がおりましたが何れも常駐はされて居なかった様です。

 

 初代からは官選市長が続き、昭和23年から公選市長となり7代目が現在の板垣武四市長さんで、昭和47年には冬期オリンピックを札幌に招致し、札幌は一躍世界に知られる都市となり人口も今や150万を越し名実共に豊かで緑と花の街として中国を始め諸外国に友好都市を持ち、我ら市民の切なる要望に応えて、一時5選を断念されたのを思い止まり、168万市民の為、古希過ぎて尚カクシャクたる青年の如き情熱を傾注して、市の将来の為、日本の為21世紀を展望しながら日夜働き続けられております。

 

 日本中にこんな立派な市長さんは外にない。

私共市民は、お陰様で世界で一番住み良い諸条件に恵まれた文化都市で幸せな暮らしをさせて頂き、先人の苦労もさる事ながら板垣市長に全幅の信頼と感謝する次第であります。

 

 どうか胸中に画いた市政を任期中に完成する為にも御健康でご活躍されん事を、御お祈り申し上げ、任期満了後は、3年前私にお話し下さった様に、御自分の余生をこの札幌で思いのままに生き、同時に後任者にアドバイスしながら溜まったストレスを全部はき出して長生きして下さい。

 一雑草の私し(私)ですが皆様に変わって(代わって)深く御礼を申し上げて130年の節目の言葉とさせて頂きます。

 

 少し長くなりましたが130年前の昔を偲び拙い短歌一首、朗詠させて頂きます。

    

    こくわずる、たぐりて渡船に竿させし、

          昔を今に写す川水

 

      昭和62年8月16日     棋詩楽山    高 木 唯 雄

 

 

参考資料2 

豊平通行屋と志村鉄一

 豊平は、西蝦夷地のイシカリ場所に所属するトクヒラ(『天保郷帳』)と呼ばれ、またトエヒラ場所とも呼ばれてイシカリ十三場所の一つして数えられていたようである。(『松前随商録』)

 天明六年には佐藤彦太夫知行主のトエヒラ場所(『蝦夷草紙別録』)が見えるが、その地が豊平地区の中にあるのかは未詳である。

 

 それでは、それ以降はどうであったのだろうか。江戸時代も末期、安政四年(一八五七)七月に箱館奉行所は札幌越新道(現在の国道三十六号線の前身)を開削、銭函~千歳間の交通路を開いた。しかし、豊平方面の開削を担当していた石狩場所請負人・阿部屋伝二郎は六月に命じられて七月に完成としたため、刈り分け程度の道であった。九月に見分に来た箱館奉行・堀利熙、その随行者であった玉虫左太夫(仙台藩士)により再整備が命じられているようであった。

 

 また、翌年四月にはもう一人の箱館奉行・村垣範正が新道を見分、阿部屋伝二郎を石狩請負人から罷免し、石狩役所調役の荒井金助に対して新道に対し「手入」をするように命じている。
 

 この札幌越新道の開削中の安政四年、現在の豊平三条一丁目に豊平通行屋が立てられている。この通行屋の番人が志村鉄一である。

 

 安政四年当時の通行屋は建築途中で完成しておらず、仮普請の小屋程度の建物であったという。さきほどの堀・玉虫も見分中に立ち寄り、一泊しているが、玉虫は『入北記』の中で「未ダ普請ナラズ」と書いているほどである。

 

 また、村垣の見分においてもまだ完成しておらず『公務日記』の中では「小屋三棟有、通行(屋)建る積り」と記録され、三棟の仮小屋程度の物だったという。

 

 だが、松浦武四郎は『新道日誌』の中では「二ツの茅小屋を立有」と書いており、また無人で番人等は存在せず、渡河用の丸木舟が係留されている程度のものだったという。豊平通行屋の完成は、およそ札幌越新道の再整備が完成した安政六年頃ではないかと考えられている。この頃くらいに番人等の設置などが行われたのではないかと言われている。


 通行屋は、旅行者の休憩・宿泊施設であり、特に豊平の通行屋は豊平川の渡河舟業務も果たした。もとはアイヌの漁場と小屋があり、その小屋跡地または小屋を利用して建設したものであろう。

 

 新道を紀行した松浦武四郎は豊平通行屋に渡河用にアイヌの丸木舟を使用し、現地のアイヌ人を舟守とし、宿泊者の食糧用として周囲に畑・川漁場を置くことを上申している。

 

 文久元年(一八六一)には石狩役所調役・城六郎が荒井金助らへ豊平通行屋業務に関して、

 

 ・豊平川渡河料の徴収・豊平通行屋に宿泊用の夜具等の用意・役人通行時に石狩からの番人が

  来てない場合は志村鉄一が賄いをすること

 ・アイヌ人からは渡河料を徴収しないことの四つの意見を述べている。(『北地内状留』)

 

 その中で渡河料の徴収と夜具等用意は認められ、この頃には通行屋も整備されてきたのだろうと考えられる。

 
 豊平通行屋番人である志村鉄一についてであるが、実際のところは伝承上の事柄が多く、実際の人物像は不明に近い。

 

 名前についても、志村鉄一(鐵一・『荒井金助事蹟材料』)のほか「志村鉄市(鐵市・『札幌区史』『北地内状留』)」や「志村鉄一郎(『従西蝦夷地石狩宗谷渡海、北蝦夷地白主より同西浦富内迄道中日記』)」など

 

 史料によって一致しない。また、出身地についても江戸または信州と違いがある。

 

 豊平通行屋番人になった時期については、石狩役所足軽・亀谷丑太郎によって伝えられている、石狩在住鈴木顕輔の家臣として石狩に来て、安政四年に荒井金助によって札幌越新道の豊平川東岸に給与・家具・食糧などを与えて宿屋守として移らせられたというものがあるが、

 

 安政四年の段階には通行屋にはいなかったという。それは、先述した松浦武四郎が安政五年六月に豊平通行屋(仮小屋時代)を訪問した時には無人だったということからである。

 

 それでは、いつから番人になったかというと、安政五年六月から文久元年五月までの間であろうと考えられている。

 

 それは先ほどの松浦武四郎の文書と、先述した石狩場所請負人の村山家による『北地内状留』にある「役人通行時に石狩からの番人が間に合わない場合は志村鉄一が賄いをすること」の部分である。ここから文久元年五月には番人になっていたことが確認できる。


 志村鉄一が番人になるまでの経緯であるが、鉄一は石狩在住兼学問教授方・鈴木顕輔の家臣であり、安政四年七月に鈴木が箱館から石狩役所への移動の際に同行している。

 

 その後、安政六年八月に石狩から樺太のトンナイ詰に異動した在住(在住とは屯田兵のような武士で、旗本・御家人を主体として選ばれ(のちには浪人や陪臣からも選ばれた)、平時は農耕・戦時は戦闘員となる武士)が著した『従西蝦夷地石狩宗谷渡海、北蝦夷地白主より同西浦富内迄道中日記』の中で、出帆を見送った人物に高橋靱負・中村兼太郎・鈴木豊太郎がおり、

 

 その中の鈴木豊太郎(志村の主人・鈴木顕輔の子弟とみられる)つきそいと思われる「志村鉄一郎」なる者がおり、これが志村鉄一であるとされている。

 

 これらから流れを考えるに、安政四年七月以前に鈴木顕輔の家臣として箱館に入り、安政四年七月に鈴木と共に石狩へ移動、安政六年八月までは石狩にいたと思われる。

 

 そして文久元年五月までには足軽格・二人扶持の身分で豊平通行屋番人になっていると考えられる。

 

 また、志村鉄一の家族であるが、鈴木とともに箱館入部・石狩移動時は本人一人だけであり、石狩に住んでいるときに家族(妻子三人と言われる)を呼び寄せ、豊平川河畔へと赴任したと考えられる。


 通行屋番人の業務だが、河野常吉による『 さっぽろ昔話 』の中で、聞き取りの伝承ではあるが、番人業務・豊平川の渡し守業務・豊平川での密漁取締の三つが主な職務とされている。

 

 志村鉄一の場合、渡し守業務だけは息子である二代目鉄一が行っていた模様である。志村鉄一は豊平通行屋番人であったのかという問題もある。

 

 志村の職名は通行屋守・宿屋守(『荒井金助事蹟材料』)とも言われ「番人」職ではない。先述した『北地内状留』においても「石狩から番人が間に合わない」時の臨時要員としての身分になっている。

 

 「番人」職は別に石狩役所にいて、志村は現在で言えば留守番・在地管理人であったのであろうか。

 また、通行屋へ赴任したときには鈴木顕輔の家臣の身分から離れ、世間では浪人と言われていることから、石狩役所の現地派遣役人としての「番人」ではなく、江戸の自身番・辻番所の番太的(通称的には番人と呼ばれる)な位置づけであったのではないかとも考えられる。

 

 また給与と言われる二人扶持も役人としての俸給ではなく、屋守としての下級武士(足軽格)の役料(職務手当)または各地の通行屋全体を管轄する石狩役所役人(荒井金助等)からの給与的なもの(陪臣扱い)であったともいえよう。

 

 その後の志村鉄一だが、明治初年に通行屋停止となり、明治四年に豊平橋が架橋されると橋守に任じられるが、明治七年に罷免され、行方がわからなくなっている。

 

 息子と思われる二代目鉄一(志村鐵市・『市中人別申出綴』)は安政六年に札幌に来ており、幕府時代は父の渡し守業務を担当していたが、明治期に作られた『札幌永住其他願書』などには家族は一人と書かれており、父・鉄一が所在不明になったあとに作られたものであろう。

 

中川昭一 「豊平の歴史」
豊平地区の郷土史家であり町連会長