北海道開拓秘話 赤蝦夷風説考 工藤平助原著 井上隆明 訳
江戸時代、田沼意次老中時代から、ロシアが虎視眈々と北方領土や北海道を狙っていたことが、窺える。
本文に入る前に、本の概説を読んで、大まかな中身を知ろうとしたが、
中々難しそうだ。訳者 井上氏の前書きと解題の序の一部を引用する。
元禄は、西鶴・近松・芭蕉を生んだが。それにもまして近世中期の安永・天明年間は、平賀源内・蜀山人・喜多川歌麿、さらに川柳/・狂歌・教詩の戯作文芸を生み、華やぐ江戸のローカル文化を謳歌した。
吉原、新宿、深川、向島、女芸者、船宿のお女将、屋根舟、屋台店、刺青、女義太夫、長羽織、路考結びに仲蔵縞・・・・と、花の東京はいきいきと躍動する。
精彩あるお江戸設計ををなしたのは、田沼意次老中である。それだけではない。人材登用、町人資本の育成。専売制、鉱山資源の開発、下総印旛沼手賀沼干拓など、新鮮な列島改造論は、封建下の画期的な政策になった。が、天明飢饉、浅間山の大爆発、それに物価高騰は、政局を一転させ苦境に立たされることになる。
仙台出身の医師が執筆した一冊子が、老中の眼にとまったのは、そんなときだった。
工藤平助の『赤蝦夷風説考』で、ひらたくいえば、北辺に出没するオロシャ船についての噂を内容としたものだが、以外にも対策や開発案まで筆が及んでいた。建策は受け入れられ、田沼の命で北海道探検船二隻が、品川沖を出航する。天明5年(1785)4月のことだった。
オロシャ貿易の振興、蝦夷地(北海道)の開拓を密かに企てる探検船は、いわば田沼意次の命運を賭して投じられた賽である。
一行は厳しい最果ての風土に苦しみながら、初めてエトロフやカラフトを踏査、かずかずの成果をあげる。
1年後、突如政変で田沼は追放され、蝦夷地調査は中止、いわゆる寛政改革であった。一遍の書がひろげた波紋と政局の裏面劇、賄賂政治家田沼の虚像と国益政治家の実像など、天明という未知の巨大な時代が本編によって明らかにできそうである。
解題
『赤蝦夷風説考』上下2冊 工藤平助著
写本が国会図書館(鶯宿雑記所収)、内閣文庫(蝦夷地一件所収)、天理図書館増。「北門蒹書」第1冊(北郊書房、昭和18年9月)、『北方未公開古文書集成』第1巻(蒹文社、53年7月)に翻刻されている。同じ題名本が最上徳内にあるが、後年のものになる。
このレポート風手書き本ほど、政治、文学に影響を与え、大量の武家グループの運命を悲劇化し、歴史の舞台を転換させた書も少ないだろう。寛永12年(1635)いらいの領国の霧は、南に厚く、北に薄かった。蝦夷地(北海道)東海岸にはロシア人が来航して密貿易が行われ、運上場所と称する交易地で、ひそかに取引されていたのである。
以上の北辺事情を明らかにしたのが、工藤の『露西亜誌(天明元年7月、1781)だった。さらに、蝦夷地の金山開発、ロシアとの対岸貿易による国益政策を提唱し、前著と合冊にしたのが、『赤蝦夷風説考』で、天明3年の成立になる。
一説では赤蝦夷財政で苦悩していた田沼意次老中が、蝦夷地事情に着眼、蝦夷痛の工藤にレポートを書かせたといわれる。
これほどに鎖国国家には未知の新事実と、北方での国際緊張とを、この本は明白にしてみせた。
工藤は、蘭癖大名の福知山藩主朽木龍橋(昌綱)、長崎通辞で蘭学の第一人者吉雄耕牛、幕府医官桂川甫周(戯作者万象亭の兄)、蘭学の杉田玄白、前野良沢、仙台出身の大槻玄沢、林子平、元松前藩勘定奉行で交易事件のいざこざにより追放中の湊 源左衛門、門人の松前藩医前田玄丹らから、海外知識を吸収していたのである。風説考は田沼派によって取りあげられ、対ロシア政策が動きだす。
田沼老中、松本勘定奉行は蝦夷地調査に乗り出し、戯作者平秩東作の派遣、そして大規模な探検隊組織となった。しかし、以降田沼派は松平定信の出現で破局の道をたどっていく運命をも、支度していたことになる。本書はまた原題を『加模西葛杜加風説考』(かもしかとかふうせつこう)であったことは、内閣文書庫『蝦夷地一件』所収本でわかる。朱線二本で消し、地名を赤蝦夷の文字に書きかえてある。
中略
執筆の背景
ロシア帝国の東方拡大は17世紀中頃から加速し、かなり早い段階でシベリア・満洲近辺まで到達していたが、清との間に結ばれたネルチンスク条約により、いったん勢いが止められた。
ロシアは矛先を変えて北方に進出し、東シベリアをさらに進んで、17世紀中にはカムチャッカ半島の領有を宣言。現地に居住するアイヌ民族などとの間で交易やトラブルを起こしつつあった。
ロシアは日本との接触に備え、ピョートル大帝が宝永2年(1705年)、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立。
1739年にはヴィトゥス・ベーリング探検隊の分遣船団が仙台湾や房総半島沖に接近した(元文の黒船)。
宝暦3年(1753年)には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた。
エカテリーナ2世の治世には、ついにロシア船は択捉島・国後島、さらに厚岸にまで交易を求め来航するようになる(詳細は千島国も参照)。
ロシア人たちは、北千島(占守郡および新知郡)のアイヌに対して毛皮などに重税を課した。すでに日本の活発な経済活動に苦慮していたアイヌは、
一部がこの新たな負担に耐え切れずに南下し、松前藩などに逃げ込み、ロシア人の活動状況を報告した。
一方、日本側ではアイヌとの交易権を独占していた松前藩が、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ和人が入地することを制限していたため、蝦夷地に関する調査・研究が遅れていた。
このような状況の下、ベニョヴスキーをオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」の奄美大島で発した書簡は神聖ローマ帝国陸軍中佐名義で高地ドイツ語で書かれていた。
長崎オランダ商館長ダニエル・アーメナウルトが幕府より解読を依頼されたが、その内容はルス国(ロシア帝国)が松前近辺を占拠するためにクリル諸島に要塞を築いているという内容を含んでいた。
ベニョヴスキーをオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」は日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになり、幕府は書簡の存在を秘匿したものの、工藤平助・林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなった。
彼は寄港地で数通の書簡を残し、その中でロシアの日本侵略の意図を述べ蝦夷地蚕食の危険を警告したのが本著のきっかけとなった。 仙台藩の藩医であった工藤平助は、オランダ語通詞吉雄耕牛・蘭学者前野良沢らと親交を持ち、北方海防の重要性を世に問うべく、本書を上梓した。
本書の内容
『赤蝦夷風説考』はロシア全般に関する地理書とも目されているが、主題は喫緊の課題であったカムチャツカ半島を中心とした地理の把握にあった。
単なる蘭書からの情報摂取ではなく、日本が掴んでいた情報を統合しカムチャツカ半島の状況分析に用いられた点に特色がある。日本における本格的なロシア研究本としては嚆矢となる書であり、多くの同憂を啓蒙した。
上巻には、
- 赤狄風説の事
- 附録蝦夷地に東西の差別ある事
- 西蝦夷之事
を載せる。松前周辺や蘭学者などからの伝聞を元に、蝦夷地周辺の事情を説いている。
下巻は以下の諸篇から成る。
- カムサスカヲロシヤ私考之事
- ヲロシヤの記事 一名ムスコヒヤ
- 年代之事
- ヲロシヤ開業の次第
- 松前より写し来る赤狄の図説の事
- 土産物
内容はオランダ語訳されたドイツ人ヨハン・ヒュプナー(Johann Hubner)の著『地理全誌』(ゼオガラヒー、万国地誌とも、1769年刊)第5巻「ロシア誌」などの蘭書に書かれたロシアの地理や歴史に関する資料を、松前藩の国人からの聞き取りを元に批判的に検討して作成した、資料編に当たる巻。
刊行の影響
当時、江戸幕府で政治改革の主導権を握っていた老中田沼意次も、蝦夷地経略に関心を寄せており、ロシア人南下の脅威に早急に備える必要性を認識していた。
そこで工藤平助は、なんとか自著を田沼の目に留めようと、田沼の用人三浦庄司を介して上申を試みる。
その甲斐あって天明4年5月16日(1784年7月3日)、勘定奉行松本秀持が田沼に提出した蝦夷地調査に関する伺書に、本書が添付された。
伺書は本書を引用しながら、蝦夷地の肥沃な大地や豊富な産物、地理的重要性を強調し、幕府主導による防備・開発を進言している。
それを受けた田沼がさっそく翌5年、幕府主導の下に全蝦夷地沿海への探索隊を派遣するに至って、平助の宿願は結実する。しかし、翌天明6年(1786年)の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまった。
田沼政権の後を執った松平定信は、文化5年(1808年)に先年に起きたロシアとの紛争に触発され、ロシアについて学習する必要性を説いた『秘録大要』という少文を著したが、付属したロシア学習のために読むべき書誌リスト「集書披閲」の中で『加摸西葛杜加国風説考』は桂川甫周の『魯西亜誌』に次ぐ3番目の位置に掲載されており、本書を軍書(軍事資料)として評価したことが付言されている。
一方、本書に影響されて蝦夷地やロシアに対する関心が高まりを見せ、平助と同じ仙台藩医・林子平が『海国兵談』を著し、平助が序文を寄せている。
ロシア皇帝 エカテリーナ2世

