京都にある東本願寺、西本願寺は、いわゆる通称である。
西本願寺は正しくは“龍谷山本願寺”といい、浄土真宗本願寺派の本山です。一方、東本願寺は正しくは“真宗本廟”といい、真宗大谷派の本山である。
戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった。)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われた。
秀吉の治世になり、本願寺派(お西さん)は京都の烏丸で本願寺の再興を許された。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派(お東さん)の始まりである。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになった。
そのため、本願寺派と大谷派の違いは、政治的問題によって分裂が起きたのですから、教義上においてはほとんどない。それゆえ、東西の交流がもどるのも、さほど時間はかからなかった。(日蓮系宗派が教義上の理由で分派している点とは大きな違いがある。)
せいぜい、本願寺派中興の祖、蓮如上人(れんにょ・しょうにん)の五帖御文の呼び方が、本願寺派(お西)が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派(お東)が「御文(おふみ)」ということ、
日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、
「南無阿弥陀仏」が本願寺派(西)では「なもあみだぶつ」に対して大谷派(東)では「なむあみだぶつ」と唱える。
あと、焼香の回数が本願寺派(お西)は1回、大谷派(お東)は2回。お仏壇の様式が微妙に違うところがあります。その程度の違いしかないのです。
ちなみに、浄土真宗西本願寺派という呼び方は誤り、また、そのような宗教団体はありません。
また、真宗東本願寺派というのはないが、浄土真宗東本願寺派という宗教団体はあります。これは、昭和56年に宗派の維持・運営をめぐる見解の相違により、真宗大谷派から離脱・独立した宗派で、東京にある「東本願寺」が本山です。
= 爺様コメント =
爺様は樺太引揚者です。亡父から「昭和23年の最後の引揚船の前の船に乗った。」と、聞かされたが、記憶は定かでない。引揚げ後、オホーツク海側の山奥の荒れ地に開拓民として割り当てられ住んだらしいが、戦前に開拓民が入った後の残っていた荒れ地でとても生活できる場所ではなかったという。それで、湧別町のサロマ湖に面した計呂地や芭露という寒村の木工場で働き極貧の生活をおくった。
苦労の連続だった父・母・兄夫婦ともに帰らぬ人となった。
このとき、お世話になったお寺は、計呂地の法然寺というお寺である。法然寺は本願寺派(お西)だそうです。
想えば、父も母もさほど信心深くはなかった。
亡き兄が生前、嫁(爺様の義姉)が不治の病気と分かってから、急に信心深くなり、夫婦で京都の本山にお参りしたり、法然寺の檀家総代も務めたりし、「なもあみだぶつ」と手を合わせることが多かった。確かに焼香の回数は一回であった。
爺様もさほど信心深くはないが、仏教用語は好んで勉強中である。爺様本人か家内が大病でも発症すれば、もう少し仏に頼るのか?
死に対して、恐れはないが。