豊平神社の山車
(北海学園大学学報 豊平の歴史⑦歴史研究家・元同大学非常勤講師 中川昭一記より抜粋)
毎年6月は北海道神宮例祭、いわゆる札幌祭りの季節で15・16日に開催され札幌にも短い夏が来たと北海道の人びとは感じるのである。
明治2年北海道開拓の神として函館から開拓判官 島 義勇が自ら奉じ雪の中、原生林を越え小樽の銭函に入り、一時ここに奉安し、その後札幌に移され、明治4年5月14日に札幌神社と名が付き9月14日、現在の円山の地に遷座(せんざ)された。開拓3神をお祀りしていたが、昭和39年明治天皇をお祀りし、北海道神宮と改称され北海道の総鎮守して尊崇されている。
このお祭りの祭行を行う地域を祭典年番といって札幌市内31地区の中で年番を引き受ける10祭典地区ほどが当番で行っている。豊平地区は第八祭典区であり、昨年10月に菊水地区から引継ぎを受け、北海道神宮事務所の指導を受けて準備をしてきた。
まず役員を決定する。最高責任者を講長と言い、以下渡御、儀典、用度、交通などの役員が決まり、神輿である4基の鳳輦(ほうれん)猿田彦、稚児など600名になる渡御(とぎょ)行列の計画が出来る。またコースを決め、その他準備をして各祭典区や関係機関に案内をするなど計画を進めてきた。
日本人は、山を神霊として崇拝してきたが、まつりに神聖な山の模型を作り賑やかに繰り出したのが山車(だし)の起源と言われている。
大正の初期から始まったが、山車がいつ頃から始まったかは記録がないので分からないが、10年代に始まったと思われる。
明治末期から大正の初めに造られた物で、大正7年には12台があったという。
豊平に1台あるが、その歴史を見てみると、昭和の初め頃、豊平橋横の阿部家の土地に小屋を建て、7・8・9祭典区の共有の山車があったが、戦争のため祭りは昭和18年から中止となってホコリを被っていた。22年まつりは再開され、24年豊平が年番となった。
豊平にあった山車は古くて使用できない程であったので、第一祭典区の山車が2台あるとのことで(実際には第2大通祭典区であったらしい)1台を借りて巡行した。 その後、2・3年は借り物の山車でまつりに参加していたが、買ってほしいのとの話があり、百万円・10年年賦で買い入れた(昭和63年・豊平神社所有者)。
山車には衣装58枚、人形(加藤清正・弁慶・菊水・不明一体)が付いていたが、山車は傷みがあり手直し、塗り直しした。現在は加藤清正の人形が豊平の山車として親しまれ、今年は6月16日北海きたえーる前を出発し美園、豊平から頓宮、4丁目三越前、大通りへと札幌の街を華麗に巡行する。(北海学園大学学報 豊平の歴史⑦平成24年6月1日発行)
ちなみに、第八豊平祭典区が北海道神宮年番敬神講社の年番当番を担当したのは、北海道神宮事務所の記録から判明した。戦後の昭和24年・同42年・同59年・平成5年・同15年・同24年の6回を数える。なお、令和2年度年番について、令和元年10月17日北海道神宮において、年番第七祭典区との年番引継ぎ式を終え諸準備に取り掛かり、役員の選任・渡御コースの決定等々を推進中、コロナ感染症が拡大し、令和2年4月1日付けで、ご鳳輦渡御・連合山車合同巡行ともに中止が決定された。
なお、豊平神社例大祭の渡御も同事情により中止となった。翌、令和3年についても、北海道神宮、豊平神社とも渡御・巡行ともに中止された。
令和4年は斎行された。
爺様から=先日、祭典区代表委員長・山車運営委員会委員長連名で、山車曳き手募集の紙が届いた。
昔は、札幌まつりと言えば学校も休校、企業も多くは休業し、祭りを楽しんだものである。
15日(木)・16日(金)と、平日であるから、この「曳き手」も集めるのが大変。喜んで「ご奉仕します。」と、手をあげる人間がいないのです。
当町内会では、今のところ、15日2名・16日5名(うち、町内協力企業会員様から3名)の応募があった。
まつりだ!まつりだ! ワッショイ・ワッショイ と、観るのは楽しい、奉仕者は足が痛くなるばかりか、雨の日もある。大変だよ・・・・。