1.29。1.22の先週に続きデリケートな案件。

小学校、指定避難場所の支所の清掃、献花台増設。

今回は南相馬市。消防団の大将の御家族を捜索。以前から何度かお手伝いさせてもらってるお宅です。


この日の南相馬は晴天。が、風は強く波は大荒れ。

海岸沿いを捜索しに長靴、防寒着を纏い海岸へ。

大将はどれくらいこの海岸を捜索しただろう?。
何度も何度も歩いて。

大将の住むこの地区も随分様子が変わってきた。更地になり何処までも見渡すことが出来る。風を遮る物はなく、砂埃が舞う。少し遠くに目をやると消防車等の車と瓦礫の仮置き場、重機。今までは無かった黒い袋が幾重にも積み重なり波を遮っている。

瓦礫撤去が進み、護岸工事が慌ただしく行われているのが見てわかった。



今日は海岸。

住宅地の風景は人工的に変わっていくが 海岸は防波堤の護岸工事以外自然と漂流物が入れ替わっていく。震災当時の漂流物は重油まみれの瓦礫や漁具。まだ残っているが日々新しい瓦礫、衣類等が打ち上げられる。
探してあげてと海が運んできてくれるようだ。
海岸に着き中年の男性とすれ違う。目的は俺達と一緒なのかと感じた。

海岸を歩き大将が「この間来たときはこんなのなかったんだ。」、落ちてる靴の中もしっかり確認する。さすがに11ヶ月自然の中にあると一目瞭然とはいかない。
「靴の中に足だけ有ったこともあるんだよ。」
‥‥‥
自分の家族の物じゃなくても確認する。打ち寄せる波。テトラポット、岩影。

誰よりも海の近くで探す。

時に冗談を言って笑わしたりおどけて見せてくれたりする。‥‥‥

自分の家族を探す。でもその捜索には全ての被害者を連れて帰ってあげたい見つけてあげたいも加わったのか、大将の男らしさ、優しさ、寂しさを見た気がした。

目と脳裏に焼き付く。。。
忘れる事は出来ない。

今日やるからには何か手がかりと言うか見つけたい。みんな同じ気持ちになったはずだ。
大将も俺達も波に濡れる。そんな事関係ない。黙々と瓦礫を退かし岩影を覗く。



昼になり大将の家に戻ると震災後産まれた赤ちゃんが!午前中の顔とは一変、みーんな笑顔に。可愛い!すっごく!被災した町、家族の希望。。。


集まった仲間と大将FAMILY。カレーと豚汁で冷えた体と体力回復。一時の団欒。
体を使った作業に美味しいご飯を作ってくれている仲間もいる。大将の周りには凄いサポーターがたくさんいる。間違いなく人柄。。


午後からは別の浜へ。

歩く。歩く。退かす。退かす。覗く。
継続捜索。こっちの浜でも新しい漂流物が打ち上げられていた。特に生活用品なんかが目につく。丁寧に探すと骨らしき物が見付かった。地元の方の話によると最近よく骨が見付かるらしい。その後も何点か見付けることが出来た。恐怖心はみんなない。大将の御家族の物であってほしい。御家族の手がかりとなるものなら。そんな一心。

見付かった骨を全て渡して後の事を託す。

他の人の物かもしれない。動物の物かもしれない。全部本来帰るべきところに返してあげたい。そしてこれからは、立ち入れる範囲が拡がってくるだろう。可能性も拡がる。何としても3月までに。

【諦めない】

行方不明者の御家族がいる。

単純なことじゃない。心情はなかなか理解出来る事じゃない。でも出来る限りの応援、支援したい。
俺達に出来る事って今はそれぐらいしかないから。

御家族にもけじめを着けないといけないときがくる。災害支援に普通はないけどやっぱりこの件は特別だ。限られた時間の中でやれる事、最後まで付き合う。中途半端は俺も嫌だ!

そして、福島県を取り巻く環境は極めて複雑だ。震災、津波、原発、放射能。
今現在、どうしても放射能関連に意識が行くが津波による行方不明者がまだまだたくさんいることを忘れないでください。御家族はまだ諦めずに探しているんです。立ち入り禁止区域もあります。
20㎞圏内解放されれば宅地、海岸沿いの捜索も行う。今は限られた範囲を反復しての活動。思い当たる場所、全てを捜索したわけじゃない。圏内の捜索は警察や自衛隊ですらどの程度やったか?
やれる事やりきってないのに諦められるはずがない。違う?

【津波による行方不明者がまだまだたくさんいることを忘れないでください。】

けじめの時まで俺達も諦めねーーー絶対に。。。

大将、浜のみなさん。これこらもよろしくお願いします。
当日、昨晩からの雪。高速道路の通行止め。仲間は下道で向かってくれていた。

俺達は朝から現地組と合流して現場へ。

支所に誰かいる!地元の御遺族、御家族の方だったらお話しなければ。

地元で被災されたご住職様がお経をあげてくれていました。俺はいきさつを話し、「綺麗にしていただけるのなら喜びます。よろしくお願いします。」とご住職に言われ、この地に来て初めて心がホッとしたんだな。
ご住職と話が出来ていなかったら未だ心にモヤが掛かっていたまんまかもしれない。。

ご住職と別れ線香をあげ黙祷してから作業に取り掛かる。家屋の中に入り空き缶やペットボトルのゴミを拾いう。外の献花台の渇れた花を掃除し、水洗いをする。
俺は二階の角にあった花束の所で座り込んで見いってしまった。
「〇月〇日お父さん様子見にきたよ。」「帰りを待っているよ。」木の板や壁材にマジックでメッセージがたっくさん書き込まれていた。そこから動けなかった。ふと後ろを見るとその御家族がいて、少しだけ話しをした。
家「ここはもう取り壊すんですか?」俺「すいません。わからないです。」家「どちら様ですか?」
俺「少しでも綺麗にしたくて。ボランティアできました。」
家「ありがとうございます。」

こんな感じのやり取りをしたかなぁ


挨拶をし手を合わせて外に出た。
掃除の手を止め全員外に出た。


ここへ別の御遺族。建物沿いに歩いて行かれたので「入り口はあちらですよ。」そしたら「娘はここで亡くなったんです。」‥‥‥‥
この建物で被災したが見つけてもらった所が家族との最後の場所になるんだな。

俺達がボランティアで清掃活動に来たことを伝えると何べんもお礼をしてくれて、「ありがとう」って。

‥‥‥‥‥目を真っ赤にしながら喜んでくれた。

亡くなられた御遺族、 行方不明者の御家族からしてみると建物が取り壊されるのは踏ん切りがつかないのかもしれない。逆の立場なら同じだろう。


御遺族、御家族の心情を思うとやって良かったとは心から思えないがこの場所を思っている人達はたくさんいるんです。
しかし、
取り壊しは決まっている。。。

何も言えねーよ。掃除だけじゃなくて捜索もして見つけてあげたい‥‥‥‥
‥‥‥
外野だけど悔しい。




遅れていた仲間が到着。すぐに作業に取り掛かってくれた。現場リーダーと献花台チームの打ち合わせをし開始。

俺は支所を後にして学校へ。

学校のメイン作業は一階の下駄箱、教室、トイレの泥出し。児童の私物、学校の看板の清掃。

20人近く集まった仲間が一斉にスコップで泥を出す。出す。出す。出す。
ジャンバーを脱ぐ。トレーナーを脱ぐ。半袖になる。

私物をタオルで拭く。看板を磨く。
棚に綺麗に整頓する。

無言で汗流しながら半袖で。

一階全部の清掃終了。


これならまた使えそうだなぁー…


学校にも手を合わせて支所に戻り新しく増設した献花台に花を添えて一人ずつお線香をあげ解散した。


震災前には無かった道路が今は校庭を横断している。時計は止まったまま。
少し先の道端には昭和8年の宮城県沖地震の慰霊碑が。【地震が来たら津波に注意】又しても教訓が活かされなかった。
もう二度と、もう二度とこの悲劇を繰り返してはならない。

みんな何を感じたかなぁー。これを書きながらもハッキリとした気持ちは見つからない。でも思ったことは自然災害にマニュアルは通じない!ルールも無い!裏山に逃げていても崖崩れとかの二次被害が有ったかも知れない。全員助かったかもしれない。
他の学校被害でもそうだが学校、先生方も被災者。これは皆にもわかって欲しい。

捜索に関しても警察、自衛隊も地元外部の人間をもっと使えば助かった命、未だ見つかっていない人達助けられたかもしれない。

人助けにマニュアルもルールも理由もいらない。そんなもの糞だ!

そして東日本大震災に関する活動をしていて人の生死に関する事に接してきてこの一番重く深い部分を知った。家屋の泥出し、解体、炊き出し。全て震災の人道支援。しかし人の生死。ここを理解しなければ本当の救助、支援活動は出来ないだろう。

今回やったこと、今までやってきたことどうだったのかな?これから未来に活かされるかな?

アホなりに模索中。
今回は書きたい感情がいつも以上にまとまらない。でもなんか伝えたい。とりあえず書く。

東日本大震災に関わる色々な事をやっています。
瓦礫撤去。家屋の解体、補修。泥出し。炊き出し。捜索。除染。‥‥
被災者のかたの家に泊まって御飯食べたり、酒飲んだり。‥‥‥
‥‥




2012.1.21、1.22。。石巻市街地から1時間ほど走った場所にある学校と避難場所の掃除、泥出し、献花台造りを手伝うことに。
正直、地名は知っていたが学校の存在被害などは知らなかった。
数100m先には誰でも一度は聞いた事のある某学校。
このメディアの片寄った報道。なんなんだ?

10ヵ月経つがほぼ手付かずって情報。

(まさかそんなはずは。)




場所がシビアな所だけにちゃんとした情報が欲しくて役所、学校、支所に連絡を取る。話しを聞く。写真を送ってもらう。知れば知るほど苦しくなる。それと共に沸き上がる疑問。なんでここが避難場所?なんで余り手付かずなの?(最初の情報とは違い、多少片付いていた)
なんで、なんで、なんで‥‥‥‥

作業の許可。立ち入り禁止場所に入る許可をもらえた。御遺族、御家族でなく役所の許可。

(注意事項が付いた。)
1.児童、大人、合わせて57人中54名亡くなられており【生存率5%】未だ不明者もいる。御遺族、御家族の方達に細心の気配りを。
2.建物が倒壊する恐れがある。

仲間にも伝える。みな心得ていた。出来る限りのことをしてあげたかった。




前日入りしていた俺は相棒と現調していた。始めて見る現場。今まで色んな被災地で活動してきたがここは‥‥‥

お線香をあげ、建物を見る。
供えてある花は至るところで渇れ空き缶などと一緒に写真や思い出の品が置かれている状態だった。

支所は5年前に新設されたかなり丈夫そうなしっかりとした建物に見えた。太い柱、梁。太い鉄骨。コンクリート。
市の防災計画では宮城県沖地震で想定される津波は5.5m。支所は海抜6mに建設。避難場所としては市の基準は満たしているのかも知れないけど適当ではない気がする。構造よりも立地場所。なんで。疑問は尽きない‥‥

津波がどの角度からぶつかってきたのかわかった。太い鉄骨が遠くから見るとアーチ状にオブジェのように曲がっている。近くで見ても信じられない。

支所に入り見回る。
昨日、地震で崩れたと言われてもわからないくらい荒れている。
壁と天井は剥がれサッシが無造作に垂れ下がる。衣類や書類、ゴミが散乱している。思い出の品もまだありそうだった。
全てのお供えしてある場所に手を合わせ、お線香をあげてゴミを拾い私物とわかるものをまとめて置く。

なんでこんな河川沿いの場所が避難場所なの?
川、河?海。もう海なんだ。目の前。
この日も防波堤を越えるような波が打ち付けていて津波の事を考えたら苦しかった。怖かった。



学校へ移動する。

この学校の避難場所は裏山だった。
訓練もして行きなれた場所。

校舎の止まった時計は【あの時間。】時間帯は放課後。震災後、卒業式の準備で校舎にいた児童は先生と屋上へ避難。学校にいなかった児童、地域の人達は指定避難場所の支所へ避難したらしい。指定避難場所と知らなかった人は高台に逃げたそうです。

結局訓練していたいつもの【裏山】には行けなかった。
災時にマニュアル、ルールは通じないんだ。


学校側から聞いていた通り多少片付いていた。が、一階は泥が残りトイレも泥で埋まっていた。二階、三階は学校の備品が乱雑に集められていた。これ等には手を付けない。児童の物とわかる物だけ一階に持っていった。図工で作った作品か【〇〇川と生きる】という絵の具で色を塗った木工作が落ちていた。その川が‥‥‥

いたたまれない。



各教室には避難時先生方が児童のいないことを確認した【確認OK】の文字が黒板に残っていた。
使わないかもしれない学校。少しでも綺麗にしてあげたい!

明日、やれる事は大体決まった。後は仲間と連絡を取り割り振りだけ。

夜。
作業するに至ってもやはりやめた方がいいんじゃないか?
みんなで悩んだがやることに決めた。


ほぼ手付かずの現場。それには理由があるはずだ。地元の人達では思いが強すぎて片付けまでは手が回らないのかもしれない。デリケート過ぎる。そんな時は外部の人間に遠慮なく言って欲しい。

俺達だから出来る事がきっとある。