10代のころ、小泉首相は言うこともやることもはっきりしていて気持ちよかった。

「遺憾」を多用し何を言っているかわからない政治家たちよりずっとかっこよかった。アメリカ人のようにはっきりしている、とにかく変えてくれそう、そういう姿が好きだった。思い返せばあれは、つまらない大人たちへの反発心だった。何をやるかは知らなかった。

 

学校の廊下を歩きながら、小泉は全部めちゃくちゃにしちゃう、と嘆いている友人がいた。彼女は知的なひとだったから、わたしは自分の無知が知れるのが怖くて「めちゃくちゃにしちゃう小泉」について話しを聞けなかった。彼女の言っていたことは何だったのだろう、という引っ掛かりが溶けていったのは、めちゃくちゃになった後だ。

いや、もっともっと後、今になってわたしは、死んでしまったやさしいおじさんの姿を振り返る。あれは、個人的なことだと思っていた。個人的な事件。でも、そうじゃなかったら?

 

今わたしは、未来に対してほんとうに不安で、真剣だ。こころをつかむ、はっきりとわかりやすいものが、変える未来はより良いものか。誰のために、何を、どう変えようとしているのか。

報道さえちゃんとされないわずかな情報を、読み取り勉強し、考えるにもどうやら訓練が必要で、あのころも今もわたしには力が足りない。

 

だからあなたが、「わかりやすい!」「かっこいい!」「本気で変えてくれそう!」と感じる気持ちがとってもわかる。それが軸になるのがわかる。

「投票したい人がいない」と思っていた。みんなうさんくさくて、変わり映えしない…。そんな政治家たちにメスを入れてくれる人に憧れたのだ。でも、メスを入れて治してくれれば医者だが、切るだけなら犯罪者だ。

 

 

今あなたが好きな政治家は、あなたやあなたの大切なひとのことを、ほんとうに考えてくれているだろうか。小泉首相が好きだったわたしは、そんな視点さえなかった。だってはっきりして、だってかっこよかったから!

 

つまらない大人…頭ごなしに叱る、わたしたちをごまかそうとする、難しい言葉で煙に巻く、わたしたちを守ってくれない…そんな大人になりたくない。本気でやってくれよと思う。もっとマシな政治家が出てこないのかと思う。けれどもそんな「大人」のもとでも、少なくとも、戦争をしないこの年月があった。そしてそんな「大人」のもとで、ここまで来てしまったとも言える。

気づけばわたしも子の親だ。

 

戦争になったら、子どもは少ない方が逃げやすいし、食べものも多くあげられる。

そんなことを、ふと考えることがある。

 

戦争が始まれば、国民に向けて、あなたに向けて、かっこよく勢いよく、わかりやすい号令がかけられるだろう。つまり、我慢して、つまり、死ね、と。核を持つのは強くなることじゃない。イランの友人は、経済制裁で薬が入ってこないと言っていた。いくら防衛しても、薬がなくて死に、食べものがなくて死ぬ。

そもそもあなたは、あなた自身は、いま兵器を買いたいだろうか。わたしたちがそのお金で買いたいものは、もっと他にあるんじゃないかな。

 

今のわたしは、地味でも、かっこよくなくても、あやふやで小難しくても、えらそうに見えても、戦争をしないための外交に力を注ぐひとがいい。国民に、子どもたちに目を向け、より良く生きられるように考えてくれるひとがいい。

そのためにできるのは、どうやらヒーローを待つことではなくて、悪いものを避け続けることみたいだ。「選挙」なんだから、いい人を選びたい。でも、どうやら選挙のテーマは、選んで託すことじゃない。最悪を避けること、どうしたら避けられるかを、考えることみたいだ。

 

 

今わたしはこころいっぱいに叫んでる。

「高市が全部めちゃくちゃにしちゃう。もう大切な誰かを失くすのはイヤだ。」