小さな頃、わたしはきれいなものが好きだった。だから、記憶のなかで初めての、美術館で、母が「気に入った絵の葉書を買ってあげる」と言ってくれたとき選んだのは、淡い色の花畑の絵と、色鮮やかな、オランダの風車の絵だった。「それも良かったわね」と、隣で兄が選んだのに母が目を輝かせた。バイオリン弾きが浮いている。何が良いのだろう? その「良さ」をわかりたい、とあの日、小さなからだいっぱいに願った。
「きれい」を仕舞い込んだわたしは、ただ絵を観た。「良さ」はなかなかわからなくても、連れられていく度美術館で買ってもらう絵葉書を眺めているうちに、様々な画家が親しいものになっていった。みんな違う空気を持っている。鮮やかなルノワール、こってりとしたゴッホ、ぼんやりなモネ、いびつなピカソ。
幻想的なシャガールはすてき。あのバイオリン弾きの絵は、シャガールだったのだ。神経質で取っ付きにくいセザンヌは、きらい。あの日母が選んでいたルソーの良さは、まだよくわからない。
奨学金は絵に消えた、と言うと大袈裟だけど、上京してからは毎週末美術館へ通った。マネ、ムンク、クレー、ルドン、ビュフェ、ポロック、何世紀も前の画家たち。沢山の作品がわたしの前を通りすぎ、立ち止まり、沈黙し、風がそよぎ、談笑し、かなしみ、こちらを観ていた。画家たちは変化していった。ピカソは愛を恐れているように見えたし、セザンヌの「神経質」は愛情から来るのだった。嫌いな画家が一番好きになる。そんなことがあるのだ。でも今は、ゴーギャンがきらい。
美術館を出ると、母に電話をした。すごい絵を観たんよ!
ゴッホって魂が揺さぶられるようだ。ルソーってなんてかわいらしいの。
もっと沢山観たい。
劇団に入ってからも増していく熱に比べ、奨学金は返すものになってしまった。時には諦めながら、細々とわたしは観続ける。バルテュス、レーピン、熊谷守一、松本俊介、いわさきちひろ。佐藤忠良、ルーシー・リー、志村ふくみ。彫刻、陶芸、あらゆるものへ。
あらゆるものへ向かう途上で、わたしは思う。絵のない場所では、自分の汚さも他人の汚さも観てきた。ただただきれいで在ることの、価値を思う。きれいなものを、つまらなくするのはわたしだ。ううん、そうじゃない、だって、憶えてる。
展示室の手前で、葉っぱ模様に切り抜かれて陽が射していた。地面は今よりずっと近くにあって、きっと小さな手を誰かと繋いでいた。緑の香りを含んだ、やわらかな風が吹いていた。あの頃わたしは「きれい」を仕舞い込めるくらい色鮮やかに、家族の傍で、しあわせだったのだ。