好きでありたいのに、なんとなく好きになりきれないもの——例えばオーケストラの音楽とか名作と呼ばれる書物——がいくつかあって、そのなかにチャップリンも入っていた。一つ一つがわざとらしいようでぎくしゃくして作品に浸れない、でもかわしらしいし、みんながすごいと言うのだからすごいのだろう、という程度だった。
そのやさしさに気付くには随分時間が掛かった。
喫茶店で、「頼むからもう笑わせないで」と言われるくらい仕事ができなかった。トレーの上にストローやミルクをのっけた挙げ句飲み物を忘れるのは常。片付け途中にお客さんに呼ばれて、そしたら他の方が片付けてくれているのに、片付けに戻って何もないテーブルにきょとん。
持って行ったカップとソーサーの柄がまるっきし違ったときは、お客さんに「ちょっと斬新な組み合わせですね」とか言って引き返した。注文を通す間なくお客さんに呼ばれ続け、電卓みたいな機械でピピピではなく、頭で覚えて言葉で伝える式なので4件くらい抱え込み「頼むから通してくれ。注文あるはずなのに暇だ」とカウンター内から声が掛かったこともある。
そしてアルバイト中はなぜかとっても耳が悪くなって、何言われたかわからない。わかってもよくわからない。暇なら暇で空想の彼方へ行って気づけば何かこぼしている。
トレイを持ったまま人々に巻き込まれてテーブルに行き着けないチャップリン。機械に合わせた動きがいつまでも止められないチャップリン。チャップリンは「チャップリン」ではなくて、わたしだった。全然笑えない、見ていられない。
ポンコツとか天然とか、そんな言葉を聞く度、口をつぐんでしまう。ポンコツ車は使われて使われてそうなったのであって、自らポンコツにはなれない。ほんとうに天然のまま居ることは容易ではない。わたしはこの現代で、日々自分を消費してしまう。
何をしてもうまくいかないチャップリンと女の子。座り込んでしまった女の子は、チャップリンのたっぷりの想像力をもってしても、救い上げられないのではないかと思うくらい。
その姿だけ自分に重ねていれば楽だけど、ふたりは勇気を奮う。立ち上がって歩いていく。
チャップリンのやさしさが傍に在るなら、わたしも勇気を出して歩いていけるかもしれない。この想像力と、ほんの少しのお金で。