「それで、女の子はどっちを選ぶん?」
アイルランドからブルックリンに「上京」した女の子が、ホームシックになりながら働き、居場所を見つけていく映画「ブルックリン」。突然の訃報で彼女は帰省することになって、久しぶりに故郷の温かさに触れ、懐かしい男性と再会する。恋人からの手紙に返事もしないで、彼女は温もりのある生活に浸る。

あらすじを話していたら、伏し目がちに母は尋ねた。都会の恋人と故郷の男性。母がどちらの答えを願っているかは、痛いくらいに分かった。

芝居と家族。東京と広島。「東京で暮らす、ということにどうしても違和感があって」とあるとき話すと、二回りほど年の離れた女性は「それはね、ずっとあるわよ」「帰った方がいいのかもね」と小さくわたしを見つめた。
答えを示してほしくて、本を読み人と話す。わたしだって女の子の選択が知りたくて映画館まで行ったのだ。


明るくなった館内で、わたしは違う方を選んでほしかった気がした。彼女がそちらを選んでいたら、やっぱり違う方を選んでほしいと思う気もした。探しても探しても決定的な啓示なんてどこにもない。彼女は答えを出したけど、わたしの答えは出なかった。

今はなんとなく分かる。あの映画が描こうとした答えは、選択するどちらか、ではなくて、痛みを感じながら「自分で決める」ということだった。
自分の居場所を自分で決めていく。自分の意思で、大切なものを大切にしていく。そうでなきゃ、気持ちはなんて信用ならないのだろう。簡単に変わってしまう。それでいて恋や、芝居がしたいという想いは、なんて理屈からかけ離れているのだろう。生まれた想いに、自分で理屈をつけて何かを決めて、多分そうやって、人生は進んでいく、のか。

今は広島に帰る場所があって、東京で芝居をしている。それがわたしの積み上げてきた全部。芝居をやめて帰ることを思うと、ぼとぼと涙が落ちてしまう。それでいて広島から東京に戻る日は涙が出る。それでいて、海外へ行きたいと願い続けているのもほんとう。

選べるとは、豊かで贅沢なことだ。来年の今日、わたしは何を愛しどこに居るだろう。20年後、わたしみたいな女の子に、どんな言葉を渡せるだろう。