考えごとで頭のなかが溢れんばかりになったとき、観たい絵があったのを思い出した。
いつもは画家や作品に思いを巡らせて着るものを決めるのに、急に思い立ったわたしは汚いスニーカーにジーンズ、埃を被ったポニーテールで、そんな格好で絵を観るのは初めてだった。
美術館は混み合っていたけれど、隙を狙えば作品と一対一で向き合える。わたしはやっとほっとした。
ある人はわたしに、ぶつからず「汚れろ」と言った。ある人は、演劇は絵画とは違う、もっと生々しいぶつかり合いだ、と言った。絵画は「きれい」でも「おとなしく」もないのに。けれど、演劇が向いていないのかもしれないと思うことはある。
セザンヌの絵の前は空いていた。彼が目指すところへ向けた集中力というのか熱中というのか、うまく言えないけれど、自分の真実を突き詰めていく、そんな彼が好きだ。わたしの隣で薄汚い格好をして、絵を睨み付けているセザンヌがいた。
ゴッホの部屋はもちろん、混んでいた。彼とはガチャガチャ話しができそう。きっとどちらも興奮して大声を出し、係員に怒られるだろう。
最後を飾る、モネの描く睡蓮は撮影が許可されていて、絶えずカシャカシャと音がなり「フラッシュ撮影はお止めください」と声がする。そんな音もどうでもいいくらい、たゆたう水は広がって、わたしは飛び込みたかった。今わたしは白いワンピースを着ているのだ。
汚ならしい異人の女の子を彼らは許してくれる、作品と本気で向き合っているなら。
初日に向け、照明さんが明かりをつくる間、出演者の代わりに舞台上に立っていた。開幕までの慌ただしい劇場で、時に闇に包まれ変化していく明かりのなか舞台上だけはしんとして、ひとつのことが思い浮かんだ。自分の感受性は自分で守らなければならない、と。
何かを美しいと感じること、好きとか嫌いだと感じること、おかしいと感じること、そんなの簡単に失われてしまう。自分を今在る世界に放っておけば。自分の内に在る言葉を使っていれば、それで世界は完結してしまう。
茨木のり子が苦手だった。ずいぶん厳しく、押し付けがましい詩だと思っていた。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
という言葉は、作者が己を律しているのだとやっとわかった。
演劇が向いていないなんて、演劇を何だと思っているのだろう。演劇はそこに在るものではなく、わたしたちが生み出すものだ。