本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。一ツ二ツの童話位では満足に食ってはゆけないし、と云ってカフェーなんかで働く事は、よれよれに荒んで来るようだし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間瞬間の私でしかないのであろう。
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夜更かしがたたって眠れなくなった夜、林芙美子を読む。生きることにくたびれた彼女の日記。二十歳を少し過ぎた芙美子が書くからかわいらしい。
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夕方新宿の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。
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新宿駅の大きな看板
「愛が複数になって 女は素晴らしくなっていく」
複数の愛とは何なのか、素晴らしいというのは誰の価値観なのか。
そうやって横断歩道越しに看板を睨んでいる三十路女の恐ろしさよ。
母が尾道生まれなので林芙美子は親しみのあるひと。
わたしに取っておいてくれたという、芙美子が幼い頃のことを書いた文章を「読んで」と母が差し出す。どちらかというと男性関係に波乱なイメージが先行して「こんな愛らしいひとじゃとは知らんかったわ」声に出して読んだ。
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或家の垣根のバラの花をみて夢かと驚き、蝶々を見て、天国の使ひだらうと空想し、しじみ貝をたべて、貝殻の天然の淡い色あひを不思議に思つたものだ。
風にも雨にも天然の妙を感じるし、管くだで聴くレコードの音にも驚き、一食位はぬかしても、町をほつつき歩いてゐる方が愉しい。
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うんうんと聞いてから、「シホ、林芙美子をやったらええよ」有名な芝居が既にあるのを知ってか知らずか。そういえば友人が「シホ、ミープ(舞台「アンネの日記」の登場人物で、隠れ家生活を支えた)やったらいいじゃん」と軽く言った。挙手制なのだろうか。
演劇と絶縁しそうになったわたしも、一人の女性の役にすべての熱情を傾けてみたい、と思ったりもする。
最近の芝居で「仕事にすべてを注ぎたいの今は」という台詞があって、千秋楽で「すべてを捧げたいの今は」とやってしまった。不器用だから注げやしないのに、こぼさないようにこぼさないように注ごうとして、結局手も足も出なくなることがある。そんな器、流し去ってしまえ、だ。
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からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。
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自分にうんざりして都会にくたびれると、わたしの夢が画家や作家だったら尾道のあの家で暮らせるのに、と夢想する。
電車の窓から尾道の海が見えると、あの有名な一節が放送で流れた。
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海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。
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そのとき向かいに座っていた地元の恋人たちの、高校生ほどの女の子が、白いリボンを足首に巻き付ける歩きづらそうなサンダルを履いていたのが、忘れられない。
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夢の中で、わけもわからぬひとに逢う。宿屋の寝床で白いシーツの上に、頭蓋骨の男が寝ている。私をみるなり手をひっぱる。
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嵐の夜こわい夢を見て、すると心地よかった部屋はただの四角い箱になり、一つ壁向こうには知らない男性が居ることが不安に思われる。数十年前に生きた女性と夜を共にして、朝方やっと眠った。
昼頃目が覚めて、ああなんと怠惰怠惰。基本的に顔色のわるいわたしの肌はさらによどんで、ぼうっとレジに並んでいたら、前の男性が「あなた少ないから先にどうぞ」と言う。「いえ、でも」
「なんでもないことです」
その響きのさりげなさ美しさに、久しく流していなかった涙がそろっと出そうだった。
こんな顔色のわるいわたしに、いや、わるいからかな、と考える浅はかさ。理由は彼の内にあるのだ。
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元気を出して、どんな場合にでも、弱ってしまってはならない。
——透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと私を呼んでいる。
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シホってゴキブリみたいじゃねぇ、のたれ死んどんじゃないかってたまに心配になるんじゃけど、会うてみると元気なんよねぇ。
例えのひどさに耳を疑いながら、否定できない。
のたれ死ぬときはお母さんのところまで行って倒れます。いえ、お母さんの居る間は、意地でもわたしは死にません。
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芙美子は強し。
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これ以上たくましくなってもこわいので、からりと笑ってやる。
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子供らしく子供らしく、すべては天真ランマンに世間を渡りましょう。