でもしわしわの手に光る指輪には憧れがある。「幸せのポートレート」という映画で、ダイアン・キートン演じる母親が、四角い大きな指輪をしているのが良い。



イギリスの露店で、二つの指輪を手に悩んだことがある。四角いスカイブルーの指輪とカラフルな花の形をしたもの。結局花の方を選んだのだが、映画を観て、ダイアン・キートンみたいな四角い方にすれば良かった、と言ったら、その指輪が似合うようなおばあちゃんになればいいじゃない、と母に言われた。そういえばわたしの祖父の左手には、金色の婚約指輪が常にはまっている。その金色は決して主張せず、手にしっくりと収まっている。



大学に入ってすぐ、わたしの爪に塗られていたマニキュアは、黒だった。塗ると自分が肯定されているようで、唯一息ができる色が黒だなんて、性格に問題があるのだろうが、結局、しっくりとする、ということが一番おしゃれなのではないかと思う。着なれていない服だって、気続けるとある日ぴたっとくる瞬間が来る。人間が変わって、馴染んでくる。




小学生のとき、手にまつわるエッセイを読んだ。ある女性が、若いころの手は何もしない手だった、毎日の水仕事でがさがさになった今の手こそきれいだよ、と言われる、そんな文章だったと思う。
その文章を読んでからか、ただ乾燥で逆剥けになった自分の手は、偽善ぽい感じがした。


生前、思うように動かなくなった祖母の手は、白く柔らかくて、つるんとしていた。握りながらきれいだなと思ったのに、それが、なんだか今は悲しい。祖母はきっとみんなのために、すすんで手をかたくかたくしただろう。もしも、あの手にマニキュアを塗ったら、祖母はどんな気持ちがしたのだろう。わたしは、老人ホームの女性たちの、あの爪に、どうやってマニキュアを塗れば良かったのだろう。自分では、とることもできないマニキュア。人生が染み込んだ手に。


話があちらこちらと散ったが、いま、自分の手を見つめながら、つぎに演じる女性はどんな手を持っているか、考えている。数個のやけどの痕と一緒に、絵の具がついた、わたしの休日の手。23年分の人生が染み込んだ手で、誠実に、演じたいと思うのだ。