上京してすぐの頃、同級生が『はだしのゲン』の一場面をやってみんな笑うのを見たとき、わたしはびっくりして歯を食いしばってやり過ごした後一人で泣いた。みんなその場面が印象に残っているのか、その後も演劇人がそれをやるのを何度か見た。
ヒロシマは広島を出ると、『はだしのゲン』の他には、こわいとかグロいとか気持ち悪い、あやしい、宗教みたい…といった言葉で表現されることもあった。「原爆で亡くなったのは禎子さんだけじゃないんだよ」と広島では言われる佐々木禎子さんを、東京の友人たちは知らなかった。良い悪いでなく、心からびっくりした。
泣いたり、しんとかなしくなったり、日記に書きなぐったりしながら、ヒロシマとナガサキ、オキナワという別の国があるのではないか…と考えたりした。いや、別の国ならいいのに、と考えたのかもしれない。
ヒロシマを描いた舞台に立っているときもその気持ちは消えず、戦争を扱った舞台に立つこと、その稽古をすること自体が苦痛になった。
それでもどうにか、と思って自分の企画を始め(それでもあやしげなんだろうと感じながら)今も続けているのだけれど、そんな悩んで企画をはじめる前に、一言言えればよかったんだよな、というあまりに単純な答えが、今更すとんと落ちてくる。
家族の一生の別れの場面を演じてみせるひとたちに「見たくない」「わたしは広島出身だから笑えない」と言えばよかった。そのとき彼らは初めて生きたヒロシマへの思いに触れたかもしれないし、気持ち悪い、とやっぱり思ったのかもしれない。どんな反応だったにしろ、あなたが笑えることをわたしは笑えない、ということを、あのとき知ってもらうべきだった。「わたしは核抑止力に反対だし、核を憎んでる。広島出身だから」とケンブリッジの片隅で言ったとき初めて彼らがわたしをほんとうに見たように、わたしだって、それが言えたとき初めて一人の人間として立てたのではないか。
こんなにも、ヒロシマの願いから世界が遠ざかっていくなかで、築いてきたものは何だったのかと首を横に振りながら、わたしもまた、怠っていたのだ、と唇を噛む。劇団の先輩に向けて怒りを示し言葉にすることはあっても、それは仕事現場で、社会派の劇団だと信じるからできるのであって、友人たちにはそれができなかった。
笑えないことを笑わないことしか、できなかった。