金沢21世紀美術館で上映会があると聞き、
観に行った。
さてさて。
地階にシアター21がある。
階段に新しいアートが置いてあります。
このホールで坂本美雨さんのライブも聴いた。
初めに医学生の頃の中村哲さんがいる。
もちろん髭はない。
この頃は理想に燃える青年。
そんなところだっただろう。
彼はパキスタンの高地に向かう。
ペシャワール。
標高三千m以上。医者はいない。
遠くアフガニスタンからもやってくる。
母親が病気のわが子を抱いて何日も歩いてくる。
順番を待つ間に息をひきとる。
悲しみにくれ途方に暮れる母親を中村さんは何人も見た。
苦労は多かっただろう。
でも充実した日々に変化が訪れる。
中村哲さんはアフガニスタンにいた。
大干ばつ。
井戸を掘っても直ぐに水位が下がる。
水もなければ農業はできない。
病気になる子どもが手に負えないほど増えた。
これは医療では限界がある。
まずは水だ。
高山から流れる大河クナール。
この川は枯れることはない。
専門家もなしに中村哲は用水路を作ろうと言う。
クナール川から水を引くのだ。
数十kmに渡って。
村人たちは無理だという。
だが中村哲は掘り始める。
(後で観た監督のインタビューだと独学だが土木工学を真剣に学んだそう。
娘から貰った高一の数学教科書から学び直して)
村人たちも続々と参加し始める。
用水路を引くことは簡単ではない。
しかも時に機銃掃射も受ける中だ。
(同じく監督のインタビュー。
アフガニスタンの兵士が怖かったことはない。
米欧の軍事ヘリが怖かった。
カメラをなぜか感知して降下してくる。
マシンガンがこちらを向く中で、知らぬ顔で仕事を続けたと語る)
(映画の中で日本の国会で参考人として呼ばれる映像がある。
自衛隊の海外派遣の是非を問う委員会だ。
「有害無益」と中村は断ずるが結論は初めから出ていた)
中村哲は日本の故郷の暴れ川である筑後川に学ぶ。筑後川では江戸時代からの治水が今も活きている。
川の大氾濫にも負けない治水工事をしなければならない。
幼い次男が難病にかかっていた。
一緒に想い出つくりをとも思うが帰らない。
7年の工事の歳月の中で息子の死を聞く。
水を引く準備は長く続く。
自らも川で治水に携わる。
難しい堰の角度を斜めにして急流に耐えるように作る。
これも江戸時代の治水の学びから。
用水路もただ掘るだけではない。
100m毎に10cmもない傾斜があるのだ。
それが27Km伸びている。
丁寧な計測があっただろう。
水門を開ける場面が撮影されている。
初めはチョロチョロと。
そしてしっかりと流れ始める。
水が入ってきた❗️
村人たちは歓喜する。
子どもたちが真っ先に水遊びをする。
その姿に中村哲は自分の息子かと胸を打たれる。
彼の息子はいない。
だが喜ぶ子どもたちは確かにいる。
氾濫にも負けないように水をどう導く工事をするかは難しい。
武田信玄など武将たちも頭を悩ませた。
鉄筋コンクリートなら援助で簡単に作れる。
だがそれでは地元の村人は維持できないのだ。
持続可能な石を使う工事でなければならない。
だから中村哲は江戸時代の治水工事にこだわった。
何もない荒れ果てた砂漠。
それが年を重ねて見事な森となる。
数十万の生活を豊かにする用水路となった。
この場面には驚かされた。
政治闘争の中で何者かに彼はスタッフたちとともに銃撃を受けて命を落とす。
用水路のそばに中村哲の顔が描かれた建物が映る。慰霊碑だろうか。記念碑だろうか。
彼は用水路のそばにモスクも建てた。
そこには学校もあって多くの子どもたちが学ぶ。
教育が未来なのだから。
ただの若者が異国の試練の中で「中村哲」にまで成長した。
病院が銃撃されても反撃は許さなかった。
どこの国においても。
必要なのはミサイルではない。
教育であり医療であり生活に役立つもの。
人びとの笑顔。そのためなら。
平和こそが力だ。
映画が終わって拍手が湧いた。
こんなのは何年ぶりだろう。
ペシャワール会の方がカンパを集めていた。
「少ないですが」とボクもカンパしたのでした。