シネモンドで映画を観る前に。



金沢広坂のななほしカレーを。



Bの「帆立と小玉ねぎのカレー」



相変わらず美味しゅうございました。



そして通りから少し奥にあるカトリック金沢教会へ。

以前から見かけてはいたけど来るのは初めて。


中に入ると涼しい!

お祈りしている方もいる。

教会内では写真は失礼なのでネットから拝借。



静かな美しい教会。



ステンドグラスはイタリアでつくられたもの。


一番右が高山右近。

その隣が聖女テレジア。


左に行ってフランシスコ・ザビエル。

一番左が細川ガラシャ。


(なんだそうです)



予想以上に高山右近の記述や関連品が多い。



下の像は、福者ユスト高山右近殉教者の立像。

(イケメンです)


上の安置箱の中に聖遺物が納められている。

スペイン宣教師が高山右近に贈ったというチョッキの一部だそう。


しばらく静穏な雰囲気に浸ってから。



出てから中を撮る。



出てみるとブロンズ製の高山右近像が。

聖書を携えて天を指さしてます。


左には南坊石。

右近の家を取り壊した際に搬出された。

名前は茶人としての号「南坊」に由来する。


高山右近邸は現在の21世紀美術館の敷地内にあったらしい。



説明板がだいぶ樹々に隠されてます。

それもまた良いか。


高山右近は1552年辺りに摂津に生まれ、

父の勧めで12歳の頃に受洗した。

1573年に高槻城主になる。翌年に教会設立。

フロイスの日本史では「明晰な知性」と評価されている。

信長に圧迫され、人質を救けようと死を覚悟して我が身ひとつで信長の下に降りる。

気に入られたのか自身も人質も助かり、

再び高槻城主であることを許される。

そうして高槻領では人口の過半数以上がキリシタンになったと言われる。


1587年。

秀吉が「伴天連追放令」を出す。

右近は棄教を拒む。

領土を剥奪され流浪の身となる。


前田利家がとりなして家族と共に前田家お預けとなる。

金沢では千利休が訪ねたようだ。

右近30代半ば。


前田家に謀反の疑いがかかる。

右近は弁明に向かい、家康に会おうとする。

会うことが出来ず、金沢城の防備のために急いで内堀外堀惣構えの指揮を取る。

(香林坊やあちこちに名残がある)


幸い謀反の話は薄れた。

(この嫌疑は関ヶ原が絡むかもしれない)

金沢にキリシタン司祭館を建設。

能登にも広がり七尾に遺品が残る。

右近は和歌や能楽に励む。


1612年。

徳川幕府の「キリシタン禁令」が出る。

前田家に引き止められるも右近は家族と共に出立する。

金沢から長崎へ。

船出してマニラで大歓迎を受けるものの。

長旅の疲れからか熱病に冒され生涯を終える。

63歳だった。




片隅にこんな場所もあった。

今度、高山右近名残の金沢を辿ってみるかな。


さて近ごろの能登。

仮設住宅はまだまだだと言うのに避難所へのお弁当ももうすぐ打ち切りになると言う。

「暑くなって食中毒の危険」とのことだが本当にそうだろうか⁉️


お金のないお年寄りたちはどうやって生きてゆけと言うのか⁉️


写真の行列は金沢での二次避難した方々に食事を渡すのに並ぶ長い行列。


石川県や日本政府は何をしているのか❗️

憲法に定められた「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

第二十五条が全く守られていない❗️


SNSで輪島塗を営んでいた桐本さんが現状を訴えているが中傷が湧いている。

桐本さんの店は一時金沢にもあったから購入した方も多いだろう。

ボクも少しお土産にした。

現代風に使いやすくアレンジされているが、

輪島塗のレベルは少しも落としていない。


その桐本さんの工房も崩壊した。

その彼の声に対して下の様に語る人がいる。




能登の人は甘ったれていて覚悟が足りないと。

しかし気合いで復興ができるというのか⁉️


能登の人々はかなり疲れています。

その人たちに浴びせられる刃の様な言葉。

行政や政治の無為無策。


報道はわずかな復活を報じるのではなく、

生きる困難に直面している姿を報じなければならないと思うのです。