青が鮮烈な印象を残す。
対比として赤も描かれるのだが。
まずは「ミツバチのささやき」
寡作のビクトル・エリセ。
そのデビュー作。
評判は聞いてはいたが未だ観ていなかった。
1940年の時代設定。
スペイン内戦直後。独裁政権下の農村部を描く。
瞳の大きな妹のアナ。
姉と一緒に巡回してきた映画を観る。
サイレント映画の「フランケンシュタイン」
姉は妹をイジるものだ。
「怪物は生きているの」
ベッドの中でアナに言う。
夢なのか現なのか。
アナはフランケンシュタインに林檎を渡す。
待てよ?
列車から飛び降りた男に渡したのかな?
小屋に隠れた男にアナは手助けをする。
夜。
小屋に銃声が浴びせられる。
アナが翌朝に小屋に行くと誰もいない。
とすると。
あの男はフランケンシュタインでもあったのか。
映画のフランケンシュタインは心は優しかった筈だ。
だけど怪物として迫害を受ける。
逃げていた男はフランコ独裁政権に対抗する人民戦線側の人物だったのか。
フランケンシュタインに心を傾けるアナは、
人民戦線に心を寄せていたのかもしれない。
と、書いてはみたものの。
この映画は観終わってもよく意味がわからないのだった。
【個人的追想】
1990年頃にスペインを観光した。
フランコはとうに亡くなっていた。
だが遠く離れた場所からフランコがかつて住んでいた家にカメラを向けると、
家の警備兵が銃口を向けるのが見えた。
(慌てて逃げた)
この映画の頃は未だフランコ独裁政権が続いてた1973年公開だから直接的な映画表現は難しかったのかもしれない。
そして先日観た「悪は存在しない」
この映画も一筋縄ではいかない。
(「ドライブ・マイ・カー」や「偶然と想像」の見事な作品を連発した濱口竜介監督最新作❗️)
その前の上映のこちらに女性たちが多く集まっていた。
面白いのかなあ?
いつもながら凝ったディスプレイ。
丁寧に読んでると時間がかかる。
チラシのイラストはこの場面だろうか。
映画の冒頭は林を見上げて進む情景が長く流れる。
静止した人形のような子どもたち。
だがそれは「だるまさんがころんだ」だった。
舞台は長野県の架空の水挽町。
湧水を汲み出す場面や薪を割る場面が淡々と続く。
その水はうどん屋さんに大切に使われもする。
そんな自然が豊かな高原の町に波が起こる。
東京の芸能事務所のコロナ禍対策として、
グランピング場が計画される。
補助金を得るためには建設は急がなければならない。
建前としての地元説明会が急遽開かれる。
(この辺りただ消化するためだけの水俣病患者らの環境大臣との話し合いを想起した。
老齢の妻が「痛い痛い!」と嘆きながら亡くなった話を3分間の「時間ですので」とマイクを切る。絶句するおじいちゃんの哀しみを本気で聞き取る気がない大臣や環境省職員のなんて冷酷な姿勢だろうか。怒りを覚えた。
環境大臣はカルト教団との繋がりがある人物)
だが説明に来たのは権限のある社長ではなく、
権限のない社員2人だけだった。
夜間に管理人が不在になる問題。
火災の心配がある。
浄化槽の位置からは町の清冽な水源にも処理水が流れる。
説明会は紛糾する。
社員2人は建設は難しいと感じた。
だが社長は再度納得させるように指示する。
オンラインで。
グランピング予定地は鹿の水飲み場でもある。
とても美しい池。
再び町に行くふたり。
車内での会話が様々に流れる。
笑いがあり不機嫌もあり。
「仕事辞めるか?」とも。
水挽町に再びやってきた社員は対照的な赤のダウン。
父と暮らす子どもの花。
こちらも青い。
花の所在が不明になり、町の放送が流れ捜索が始まる。夜の自然は危険だ。
話は急展開してゆく…
映画を観終えて「あれっ?」
わからないのだった。
農村と都会との対立はあるだろう。
自然と人間との対立もあるだろう。
だがそれだけでテーマにしない気がする。
なんだろなあ❓
インタビューが書かれていた。
“今年観た映画で面白かった作品は?”
の問いに。
「アキ・カウリスマキの『枯れ葉』」
と答えている。
(この映画はボクは面白くなかったんだよなあ!)
感性が鈍いのかなあと嘆いてると。
もうひとつの質問が目に入った。
“監督の作品をどう解釈したらいいかわからないと言われたら?”
「それでいいんですよ。
私もよくわからない作品はたくさんありますし、それでいいんです。
そういうもんですよ」
…良いのかなあ〜❓