「強右衛門磔の図」


徳川家康ファンの方や名古屋辺りにお住まいの方に人気とのこと。

他地域の方は昨年の大河ドラマを思い出してね。



設楽原歴史資料館から、

なかなか来ない電車で長篠城駅に到着。

では歩きましょう。


駅を出てすぐ。

まだ本丸から遠い場所に搦手門跡がある。

やはり本格的な城であったようだ。



徒歩8分で長篠城趾史跡保存館に着いた。



長篠城を取るかどうかが戦いの鍵となった。


武田軍にとってはここを織田軍に取られると背後を絶たれる。

だから設楽原の戦いの前に1万5千の兵で500人が守る長篠城を攻めた。



解説文がある。



だが長篠城は図の通り2つの川の分岐点にあり、

天然の広くて深い堀となっている。

ここからの攻撃はできない。


平地は内堀や土塁で固め、落としづらい城だった。

周囲には砦も配置してあっただろうし。



保存館が既にかつての本丸の場所である。



土塁も一部残っている。



この広い平地にかつて本丸があった。



土塁の上を少し歩く。



後で丁寧に見よう。



では保存館へ。



「血染めの陣太鼓」

がまず目に入る。

籠城戦の際に使用された。

叩く数などで合図としたのだろう。

背中に負って叩いた。



拡大しました。



ではなぜ磔にされたか。



もちろん武田軍は厳重な包囲網を敷いた。

だが強右衛門は、あの断崖の川に降りて抜け出した。

そして岡崎城にいる信長・家康に窮状を伝えた。

さらに援軍の確約を得る。

喜んだ強右衛門はその知らせを伝えに戻る。


だが今度は捉えられてしまう。



この話は講談などでも語られるので、

明治になっても絵に描かれている。



ここに書かれてますね。

「強右衛門は直ちに引き返し、城に入ろうとして捕えられた。

勝頼本陣に引かれ、

援軍は来ぬから降参せよと叫べ。

そうすれば命は助け、褒美をやろうと誘われた。


強右衛門は城門に立った。

“援軍は野田に着いたぞ!

安心して城を守れ!”

と呼ばった。

武田軍は怒って、城の対岸、篠場野で磔にした」


しかしこれは武田軍の愚策だ。

目の前で勇者が磔にされた姿を見て織田軍は怒りに震える。

命懸けで城を守る気迫に満ちてしまう。


(そして後世に伝承される)



馬防柵の近くにあった長篠合戦図屏風。

こちらが本来の絵。



馬場信春の忠死碑の拓本。

ここから遠くない場所に石碑がある。


撤退する武田勝頼の為に殿を務め奮戦した。

「信長公記」にも讃えられている。




この説明だと場所が記されているだけだな。



今にも斬れそうな槍たち。

十文字槍は厄介だろう。



上から2番目が「血槍」と書かれている。




各種の火縄銃。



城を死守した城主奥平貞昌は信長から一文字もらい奥平信昌と改名。



戦死者は武田軍だけでなく、

織田・徳川連合軍にも多く出た。

それは戦いの激しさを物語るだろう。



これはなんだったかな?

文章は信長の死まで書いてますね。




「長篠の戦いは、攻城戦と野戦とを兼ねた戦いで戦跡はおよそ20平方kmの広さに渡っている」


これは長篠城を巡る戦いだけの広さ。



航空写真。

右下に長篠城があり、

左上の馬防柵がある。


さてもう一度外に出て。



出て数分の場所に強右衛門がここから、

「呼び掛け」たと伝わるポイントがあった。


振り返ると。



大声で何とか届くか。


ここから強右衛門の碑は直線距離では近いのだが川を挟んでいる。

渡れる橋は遠い。

行くだけで30分近くかかる。

帰りに間に合わないので本丸に戻る。



比較的新しい本丸跡の指標。



城の周囲は断層による谷があり川がある。


碑の対岸から見えるかと探す。



おっ❗️



やはり遠いので掲示したか。


「鳥居強右衛門磔死の碑

対岸の平地にあります」


(樹々が邪魔して全く見えない)



この説明が一番詳しい。

強右衛門は岡崎城まで約50kmを走ったなどと記されている。



磔は城を守る軍勢に見えるようにされただろうから川の対岸になる。



この川によくぞ降りたものだ。

登山の装備をしないと命が危ない深みにある。



再び土塁を見て帰らんと欲す。



近くに武田勝頼の落武者伝説があった。

「さかさ桑」だそう。



長篠城駅に到着。

名古屋まで帰ろう。


(しかし城のある駅としては安直な気もする)