火縄銃がズラリと並んでます。



磔磔でキョンキョンを観た翌日。

京都駅から乗り継いで、JR飯田線で三河東郷駅で降りる。


(なかなかのどかなローカル線です)



駅前に設楽原決戦場案内図がある。


(駅員さんは居ない。

電車はワンマン電車)


まず設楽原歴史資料館へ向かう。

てくてく。



途中で「首洗池」の看板を見る。


「長篠の戦いの時、この池で戦死者の首を洗ったという」

そう記されている。

「血洗池」とも呼ばれた。


(ちなみに。

石川県にも源平の古戦場、倶利伽羅峠の戦いの際、斎藤実盛の首を洗った首洗池がある。

白い髪を黒く染めて戦った老武者のお話は「平家物語」に詳しい)




鎮魂が為されているようです。



しかしこの形では風情がないな。


歩みを進める。



分かれ道に掲示されていた。

そろそろかな。




到着〜

雨が強く降ってます。



入館すると、

「設楽原のメッセージ」

甲冑とともに迎えてくれます。



「最大級の大鉄砲」

全長3m以上あり、とても一人では持てないだろう。



“空を仰ぐと、

雲が早く走っている。

法螺は鳴り続けていた。

「行かなければならない」”


井上靖の作品から。



展示の配置図。




「日本最古。

伝説の火縄銃 信玄砲」


この火縄銃で信玄を狙撃したと伝わる。



武田軍は鶴翼の陣を敷いたと聞く。


近年の研究では馬防柵は幾らかは突破され、破られたとしているようだ。


黒澤明の「影武者」で描かれたような、

ただ無惨な殺戮だけではなかったよう。



設楽原・長篠の戦いの前に、長篠城の攻防戦があった。

この戦いも重要だった。


(後日、詳しく書きます)



鉄砲玉はあまり発見されなかった。

ここでは「貴重なので回収したのではないか」

と捉えている。



馬防柵は2kmに渡って幾重にも造られた。

(これは膨大な作業です)


戦場には川が堀の役割をし、田はぬかるんでいて騎馬の突進を難しくした。



軍議が本当はどうであったか。

それはわかることではない。


だが待ち構えている場所に突入するのは得策ではないだろうとは考えてしまう。



模型があった。

「馬防柵は河岸段丘を形成している地形を利用して築かれたと伝えられている」


段差がある方が狙撃には向くだろう。


(いわゆる三段撃ちは実際には遅くなる。

近年では否定されているようだ)



模型はこの資料館が作成したもの。



柵から前に出て足軽たちは騎馬武者を狙撃し、

押し寄せてくると柵内に逃げ込み、

その柵内から狙撃した。


その方が相手を挑発もできるだろう。



ジオラマ。

この後、実際に歩いたが想像以上に壮大な攻防戦です。

スケールがもの凄く大きい❗️



数々の火縄銃。

その歴史の展示。



大貿易港だった堺は信長が押さえていた。


弾薬に必要な鉛などはタイの鉱山など海外から輸入し、鉄砲職人に数多く造らせただろう。



堺銃と朝鮮銃の比較。

(違いがわからん)



火縄銃の構造。



武田軍の旗印。



こんなのが数千丁も並ぶのか!



織田・徳川連合軍は3000丁の火縄銃を準備したと伝わる。

これだけの数となると織田軍だけではまかなえない。

各地から火縄銃や撃ち手を手配したはずだ。


それはあらかじめの準備があったという意味になる。

設楽原・長篠の戦いは、その場での対応でなく、

信長の画期的な戦略だったのだろう。



ほとんど大砲に近いのも。



名のある武将たちの石碑は残されている。



これはかなり大きな戦場図。

作成は小学校だったか中学校だったか。



人気作家だった山岡荘八の筆。



時折り見かける。



徳川家康十六神将図。



これを着けるのは大将クラスでしょう。

傷が付いている。戦いの時だろうか?



「火縄銃の弾の飛距離は200mほどで、

火縄銃が実際に発射されるまで約25秒ほどかかっていた。

騎馬武者は200mを約18秒で走ることができる。

一対一の戦いであれば一発目を避けることができれば騎馬武者の勝ちとなる。


が、戦場で一対一とは限らない」


【付け加えれば火縄銃の有効射程距離は50mほどである】


また、

「火薬や弾の原料のほとんどが輸入品であったため、鉄砲隊を整備するには莫大な資金を必要とした」とある。


その莫大な資金を信長は持っていた。


しかし武田勝頼は内陸のため海外貿易はできない。

大きな資金はなく、鉛など弾薬も不足していた。




以前に放映された「歴史探偵」では、

織田軍は3000丁。

武田軍は1000丁。


武田とてやみくもに突撃するわけではない。

まず鉄砲戦で相手を消耗させる。

または相手の弾数を減らす。

それからの戦いで騎馬軍団は無敵なのだ。



しかし鉄砲の数で劣るだけではなかった。


織田軍は資料によりひとり300発の弾を持つと推定される。

それに対して武田軍はひとり100発。

更にそれも長篠城の戦いで減らしていた。


90万発vs5万発。


武田軍の弾が尽きた時にも織田軍は余裕がある。

あとは突撃しかなかったのか。



戦没者を葬った墓が2つある。

信玄塚と呼ばれる。



こちらが大塚。

武田軍を葬ったとされる。



横に説明がある。

この地では武田軍の霊を弔うため、

毎年火おんどりという祭りがあるそうな。



織田・徳川方の小塚。

こちらはこじんまりとしている。


(降りしきる雨の中、必死にスニーカーを濡らして探した。ふう😮‍💨)


戦いのあり方を大きく転換させたという設楽原・長篠の戦い。


どれだけの人たちが命を失っただろう。

しばし思いを馳せる。



さて。

戦いの地を見にゆこう。


雨がやまない。