敗戦後、武装解除された日本で、

どう民間の人たちがゴジラに立ち向かうか。


もう多くの文章が書かれたのでボクなりに書いてみよう。


「シン・ゴジラ」は素晴らしかった。

だから新作はプレッシャーだろうなと思っていた。

退院し仮のメガネが出来上がり、

また映画館で映画を観られる喜びを感じる。


評判の良い新作ゴジラはどんなものだろう?


幾つかのセリフがある。

「あなたもまだ戦争を生きているんですね」

そんな心に傷を負った男たちが闘う。


敷島(神木隆之介が上手い)は元特攻隊員で毎夜悪夢にうなされる。

他の戦争体験者も似たようなものだろう。


「戦争を経験してないのは幸せな事なんだ」

これからの未来を生きる若者に対して。




文学にしろ映画にしろあらゆる表現はその時代を否応なく背負う。

「シン・ゴジラ」は3.11だろう。

この作品は憎しみの連鎖が続く現在だろう。


外交戦略を軽視し勇ましさだけを誇った太平洋戦争。


補給を軽んじて現地調達しかなく膨大な餓死者を出したインパール作戦。

(インタビュー番組で生き残った元兵士たちは、

あの作戦の立案者だけは殺してやりたいと語っていた。立案者は戦後も長生きした)


零戦は優れた戦闘機だったが旋回力に秀で航続距離を長く取るために軽量化を余儀なくされた。

そのためパイロットを守る背後の遮蔽は薄い。

燃料を積む翼も軽機銃だけで燃え上がった。

パイロットを守る装備を図った米軍機とは大きく異なる。


そんな戦争への言及が映画でも語られる。

東京を火の海にした焼夷弾の雨に対してバケツリレーでどうする?

竹槍でどう戦えと言うのか。


そんな連想をするほど愚かしい戦争であり、

浅はかな日本軍部、政府だった。


だがそいつらの為に無尽蔵に人が死んだ。

だとしたら。

そいつらを産む何者かに対して落とし前をつけなければならない。


銀座の街をのし歩き罪のない人々を踏み躙るゴジラ。

戦争の生き残りたちは「戦争を生み出し得をする何者か」に戦いを挑む。

それがつまり巨大な怪物「ゴジラ」ではなかったのか?




ゴジラに力で及ばないと思われた時、

多くの民間船が駆けつけて力を集める。


ふと「ダンケルク」を連想した。



終盤近く。

「永遠の0」と同じにしてはならない。

そう思った時、監督はやはり良く考えていた。



エンディング近くになって父のことを思い出した。

召集されてすぐ富山にゆき大空襲に遭う。

父からは一度だけどう逃げたかは聞いた。

だが必ず見たはずの戦友の死や市民の遺体については何一つ語らなかった。


昼間から若死にしそうな大酒を飲んで酔っ払う。

ギャンブルに一晩で一軒の家が建つほどの借金を背負う。

博打でヤクザと喧嘩して留置場に入る。

そんな家族に迷惑をかけた父もまた戦争後遺症を抱えていたのかもしれない。

(そんな形跡はなくもなかった)


父はゴジラと戦うこともなく早くに亡くなったけど。

映画を観ながら、

少し父を許せるかもしれない。

そう思えた。


そしてボクもまた戦わなければならないだろう。

「戦争の親玉」を潰す為に。

(ほんの欠片でもね)



「ゴールデンカムイ」の予告が流れていた。

「トットちゃん」の予告も。


金塊を巡る闘いや「違い」を許す社会を描くこともまた平和への礎になるとボクは思うのだ。


(ちょっとわかりにくい文章になってしまった)


世界中に定められた

どんな記念日なんかより

あなたが生きている今日は

どんなに素晴らしいだろう


世界中に建てられてる

どんな記念碑なんかより

あなたが生きている今日は

どんなに意味があるだろう


ブルーハーツが切ないなあ。