鶴彬(つるあきら)


「川柳界の小林多喜二」とも呼ばれる。

29歳で特高による拷問で衰弱。獄死する。



調べてみるとこちらに鶴彬の多くの資料が残されているらしい。

ネット情報は変化する事もあり得るから、

あらかじめ電話して確認してあった。


「たかまつまちかど交流館」

ここの3階にあると言う。


入り口から覗くと多くのお年寄りの賑やかな声。

受付の女性に聞くと。

「一昨日電話された方ですね?」


よく分かりましたね!

そう言うと少し笑顔を見せて3階迄階段を登って案内してくれる。


3階は暗い。

電気を点けて「どうぞご覧ください」

そう言って降りていく。

写真も自由に撮って良いと。

値札の付いた販売品も多いのに一人にして良いのか❓


【後日調べ】

毎週水・金及び第一・第三日曜。

その午後1から5時までの開室に限られている。

だからイレギュラーで見せてくれた。

有り難し!



「600万川柳学徒のメッカ」

そんなにいるかなあ?



集合写真が迎えてくれます。




「高松ふる里偉人館」


少し複雑な思いがする。

鶴彬の時代にはふる里は彼に決して優しいものではなかったから。



鶴彬の自筆短冊が貼られた屏風。



こちらも。



佐高信さんの講演が9月3日にあったのか❗️

全く耳にしなかった。残念😢


写真の左上にあるように、

彼は鶴彬の評伝を新書にしている。

(買ってあるが未だ読んでない)



鶴彬を描いた映画もあったらしい。

神山征二郎監督。



絵に川柳が載せられている。


【正直に働く蟻を食うけもの】


もちろん民衆が蟻である。



【猫の目は遂に闇をば知らで果て】


猫の目に日章旗がある。



鶴彬の遺品の写真。


かほく市の他にも、

鶴彬が治安維持法違反で収監された大阪衛戍監獄跡に、没後70年の2008年に句碑が建立されている。

(今度大阪に行ったら見に行こう)


また岩手県盛岡の彼が眠る光照寺にも句碑があるようだ。

(盛岡に宮沢賢治を訪ねた際に立ち寄りたかったなあ。あの時は盛岡冷麺と牛タン塩焼きに頭がいっぱいだった)


金沢の近代文学館にもコーナーがあると。

今度覗いてみよう。

金沢の卯辰山にも句碑がある。

(クルマでしか行けない)




鶴彬が治安維持法違反で収監されている頃、

5.15事件で犬養毅が暗殺される。

翌年ヒトラー内閣成立。

小林多喜二が虐殺された。


その時代に民衆の立場に立つ川柳を詠むことは特高に狙われることを意味するだろう。




喜多一二は鶴彬の本名である。

取り調べ。


「じゃあこれは何だ。


大砲をくわえ太った資本主義

重税に追われ漁村に魚尽きる」


ー本当のことじゃ。面白い川柳じゃろ。


彼は高松にいられなくなり東京に行く。

筆名を鶴彬とする。



徴兵に取られてすぐ。

上官が軍人勅諭を読み上げている時に質問の声を上げる。

軍の上官が絶対だった時代。

まして軍人勅諭。


彼は収監される。



除隊した時は24歳。

社会の矛盾を突く作品を精力的に作り続ける。

だが活躍は当局の標的になる。


危険思想と見做した特高に捉えられる。

東京中野区の野方署に勾留。

真冬に水風呂に入れられるなど、たび重なる拷問を受け、鶴は衰弱して行く。



やがて彼は赤痢を罹患し重篤になり、

手錠のまま新宿の病院に移送。

そのまま帰らぬ人になる。

享年29歳。



まだ元気な頃の写真。



盛岡の句碑からの拓本。

彼の代表作でしょう。



なぜ盛岡に墓があるかというと。

高松では引き取れなかったから。

“アカ”で当局に叛いた彼を受け入れられる時代ではなかった。

だから兄が自分が住む盛岡に引き取る。



どんなに成績が秀れていても、

どんなに師範学校の進学を願っても、

叶わない時代と環境だった。

働きつつ独学をして地元新聞に投句をする。


【燐寸の棒の燃焼にも似た生命】

【儚いと捨てられもせぬ命なり】

【弱き者よより弱きを虐げる】


15歳の作品とは思えない。



朝鮮人らをうたう。


【母国掠め取った国の歴史を復習する大声】


朝鮮を掠め取ったのは日本である。

日本語教育を強制したのは日本である。



【食堂があっても食へぬ失業者】

【避暑客の汗を一人で流す火夫】


火夫(かふ)とは蒸気機関車のボイラーに石炭を投げ入れる機関助士を言う。

英語では「ストーカー」と言うそうな。


(あれっ❓)



最期の作品6句など。


【屍のゐないニュース映画で勇ましい】

【タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう】


(現代でも戦場では屍が映らないようにしているだろう。例えばロシアのニュース報道でも)



こちらが鶴彬の生涯を簡単にまとめている。


自分が思った事を正直に発言する。

そうすると命が危ない時代だった。


とするならば。

生き残った人たちは思った事は言えず、

強い者たちの意に沿う言葉を使ったわけだ。

“忖度”の極地はここへ向かう。


鶴彬は小林多喜二と同じく、

弱い人たちの立場に立ち、貧困を詠み、

反戦と平和の連帯を求めた文学の道を歩んだ。


その結果が悲劇だったとしても。

その想いは受け継がなければならない。


各地で句碑が建立されたのはほとんど近年である。

それまで公に顕彰するのは憚られた。


かつては鶴彬を受け入れなかったふる里だが、

「鶴彬を顕彰する会」が彼の生涯を掘り起こす活動を継続している。


鶴彬はもっと評価されるべきなのではないか?

その思いを強くする。




映画撮影時のスナップ写真が飾られていた。

どこかで映画も観てみたいな。



パンフレットをもらって受付の方にお礼を述べて出る。




街にある句碑を訪ねていこう。