大ちゃんにまつわる方々の記事です。
まずは、「家族」。
それは、3人のお母様であり、お兄さんのような人であり。
前夜「おかん、引退するけん」…高橋大輔選手
2014年10月15日 07時44分http://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20141014-OYT1T50089.html
2010年バンクーバー冬季五輪のフィギュアスケート男子で銅メダルを獲得した高橋大輔選手(28)(関大大学院)が14日午後、岡山市内で記者会見し、「一区切りをつけて、次に進んだ方がいいと感じた」と現役引退を発表した。
高橋選手は、2月のソチ五輪で6位入賞し、4月に休養を宣言していた。「1、2年ゆっくり考えようと思ったが、気持ちがもやもやしていた」と、9月半ばに現役引退を決めたという。
競技生活での思い出を尋ねられ、「いいことも悪いこともいい思い出」と話し、「(バンクーバー五輪で)国旗が揚がっていく表彰台からの景色は鮮明に覚えている」と語った。
氷上での引退表明ではなかったことを「残念」と語り、「あんな選手がいたなと頭の片隅に置いてもらえたら。熱心に応援してくれた人たちに支えられてきた」と感謝の言葉を述べた。今後については「スケートとどう向き合っていきたいのか考えたい」と述べるにとどめた。
長年、男子フィギュア界をリードした高橋選手にゆかりの人々も声援を送った。
母清登さん(64)は「13日の夜に『おかん、引退するけんよう』と連絡を受けた。さみしいような、うれしいような、解放されたような気持ち」と心境を語った。
高橋母「よく頑張った」ねぎらい
http://www.nikkansports.com/sports/news/p-sp-tp0-20141015-1382131.htmlフィギュアスケート男子で10年バンクーバー五輪銅メダリストの高橋大輔(28=関大大学院)が14日、故郷の岡山県内で会見し、現役引退を発表した。
中2から高橋を指導する長光歌子コーチ(63)も会見に出席した。教え始めたころ「僕はここまでくるのに、いろいろな方に支えられた。どういう風に恩返ししたらいいんでしょう?」。14歳の少年からそう聞かれ、「そういう素晴らしい感情を持った選手はいない」と感動したという。
母清登(きよと)さん(64)は「ほっとした気持ちと、寂しいなという気持ちが半分半分」と複雑な様子。4兄弟の末っ子は、母が働く地元の美容「タムラ」のワックスの効いた床を運動靴で踊り、演技練習をしていたこともある。立派に成長した息子に「人並みですけど、よく頑張ったな、お疲れさん」とねぎらった。
[2014年10月15日9時16分 紙面から]
「寂しい、でも幸せ」 高橋大輔を支えた2人の「母」
大坂尚子、浅倉拓也
2014年10月15日00時26分
http://digital.asahi.com/articles/ASGBG6213GBGPTIL02R.html
日本の男子フィギュアスケートを引っ張ってきた高橋大輔選手(28)が14日、一線を退いた。競技を始めて20年。故郷・岡山では2人の「母」が引退表明を見守り、練習拠点だった大阪の関係者も功績をたたえた。
岡山市の会見場には、母親の清登(きよと)さん(64)と、小中学校時代のコーチで「スケートの母」の佐々木美行(みゆき)さん(57)の姿があった。
清登さんは「ほっとした気持ちとよく頑張ったという気持ち、ちょっと寂しい気持ち」と複雑な胸の内を表現。この夜、地元の岡山県倉敷市ではファンら500人が集まった。その場で清登さんは「みなさんが温かく応援してくれて、幸せなスケート人生を送れたと思う。そんな息子をもって私も幸せです」と話した。
倉敷市で小学2年から指導した佐々木さんは13日夜、高橋選手から電話で「先生には僕の口から言っておきたい。引退すると思う」と告げられた。
佐々木さんは「いつか来ると思っていたけど予想以上に重たかった」と明かし、こんなエールを送った。「地元での10年は、自由に楽しみながら頑張っていたと思う。感性豊かな選手だった。(引退しても)スケート界で彼にしかできないことをやってほしい」
高橋選手が練習を重ねた大阪府高槻市の 関西大アイスアリーナを管理する御崎基(みさきもとし)さん(53)は「ニュースで突然知って驚いた。体がぼろぼろになりながら頑張ってきたので、残念な 気持ちと、お疲れさまという気持ちがある」とねぎらう。その上で「技術だけでなく、独特のセンスや表現力で日本の男子フィギュアを変えた」と称賛を送っ た。
高橋選手は、かつての練習拠点だった大阪府高石市の府立臨海スポーツセンターが財政難に陥った時に募金活動の先頭に立った。同センター「支援の会」の高林永統(ながつね)会長(52)は「いつも笑顔で接してくれ、練習生の模範だった。今後は第2、第3の高橋選手を育ててほしい」と語った。(大坂尚子、浅倉拓也)
「十分に恩返しできたと思う」大輔を支えた長光コーチ
2014.10.14 21:45http://www.sankei.com/sports/news/141014/spo1410140044-n1.html
高橋の引退会見には、中学2年から指導してきた長光歌子コーチが、母の清登さんらとともに同席した。長光コーチは、「最初に家に泊まりにきた14 歳のとき、『先生、僕はここに来るまでにたくさんの人に支えられてきた。これからどんなふうに恩返しをしたらいいでしょうか』と聞かれた」と、印象的な思 い出を明かした。
その感性に驚かされるとともに、「あなたが頑張ることが恩返しじゃないか」と説いた。五輪で銅メダルを獲得し、世界王者にまでなった高橋を「十分に恩返しできたと思う。本当にお疲れ様」とねぎらった。
母清登さん(64)は「13日の夜に『おかん、引退するけんよう』と連絡を受けた。さみしいような、うれしいような、解放されたような気持ち」と心境を語った。
母清登(きよと)さん(64) は「ほっとした気持ちと、寂しいなという気持ちが半分半分」
立派に成長した息子に「人並みですけど、よく頑張ったな、お疲れさん」とねぎらった。
清登さんは「ほっとした気持ちとよく頑張ったという気持ち、ちょっと寂しい気持ち」と複雑な胸の内を表現。この夜、地元の岡山県倉敷市ではファンら500人が集まった。その場で清登さんは「みなさんが温かく応援してくれて、幸せなスケート人生を送れたと思う。そんな息子をもって私も幸せです」と話した。
「引退するけんよう」
岡山弁なのかな?
そういう言葉でお母様に、
どうやら一番最後に連絡したとニュースで言っていたような?
お喋りだから、なんて大ちゃんは言ってましたが、
息子として言うのが辛かったのかな・・・
大ちゃんのお母様、2012-2013シーズンの大阪4CCで、私はお姿を拝見しました。
お父様やお知り合いの方々とロビーで話されていました。
無躾にも私ったらずっと見つめていて、
見つめながらそばを通ったら、何か気づかれたようで。
(そりゃ見つめられれば気づくわね(^_^;))
知り合いでもないのに会釈したら、会釈を返されました・・・
心の中ですみません、と私、言いました。
『be SouL 2』(祥伝社)でも、大ちゃん自身が書いていましたね。
これが、お母様の見た大ちゃんの生観戦の最後だったのかもしれません。
(間違えていたらごめんなさい)
大ちゃんの最後のコンペになってしまったオリンピックは現地に行かず、
地元の方と一緒に日本で応援していました。
遠くから見つめていることの多かったお母様。
でも、発せられるお言葉は、常にあたたかく、広く、気遣いを感じました。
「みなさんが温かく応援してくれて、幸せなスケート人生を送れたと思う。そんな息子をもって私も幸せです」
幸せという母の言葉を大ちゃんは、どんな気持ちで聞いていたのかな。
私も、こう言えるような人になりたいです・・・
長光コーチ
「最初に家に泊まりにきた14 歳のとき、『先生、僕はここに来るまでにたくさんの人に支えられてきた。これからどんなふうに恩返しをしたらいいでしょうか』と聞かれた」
「そういう素晴らしい感情を持った選手はいない」
「あなたが頑張ることが恩返しじゃないか」
「十分に恩返しできたと思う。本当にお疲れ様」
前にも新聞のコラムでこのエピソードを読んだことがあります。
大ちゃんの真摯な一面を知ることができて嬉しく読んでいました。
今回、このお話を大ちゃんの地元岡山で語った歌子先生、
すばらしいなあと思いました。
大ちゃんがどんな気持ちで倉敷から大阪へ来ていたか。
場所は変われど、大ちゃんの心の中に、常に地元のことがあったということが
このエピソードでわかりました。
歌子先生、ありがとうございます・・・
倉敷市で小学2年から指導した佐々木さんは13日夜、高橋選手から電話で「先生には僕の口から言っておきたい。引退すると思う」と告げられた。
佐々木さんは「いつか来ると思っていたけど予想以上に重たかった」と明かし、こんなエールを送った。「地元での10年は、自由に楽しみながら頑張っていたと思う。感性豊かな選手だった。(引退しても)スケート界で彼にしかできないことをやってほしい」
僕の口から言っておきたい。
それは、はじめの一歩を忘れない大ちゃんだから。
英才教育でもなかったし、クラブの和気あいあいとした雰囲気がただ楽しくて、リンクに行くことが遊びみたいなものだった。小学校までは、学校の友だちと遊んだ記憶がほとんどないくらい。
きっと楽しくて通っているうちに、自然と上達していったのかもしれない。
髙橋大輔『be SouL』(祥伝社) P.18
その頃習っていた服部直行先生や佐々木美行先生は、スケートも遊びながらだったけれど、スケートが終わった後も一緒に遊んでくれるような先生だった。あまり型にはめる感じではなく、適当に遊びながらだったからこそ、僕はスケートが楽しかった。もしキッチリした先生だったら、僕はきっとやめている。
髙橋大輔『それでも前を向くために be SouL 2 』(祥伝社) P.66
大ちゃんがやめないでくれて良かった(*・ω・*)
美行先生、ありがとう・・・
この3人のお母様と大ちゃんのことを野口さんがスポナビのコラムに書いています。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/figureskate/all/1415/columndtl/201410150005-spnavi
実母と2人の元コーチに囲まれて
「気づけば20年たっていました」高橋大輔(関西大大学院)の引退宣言は、そんな言葉から始まった。28歳と7カ月。ピークが20代半ばといわれるフィギュアスケートで、3度の五輪に出 場し、10年近く日本男子のエースとして荒野を切り開いてきた。2014年10月14日、高橋は、実母と2人の元コーチの「3人の母」に囲まれ、照れくさ そうに“引退”の二文字を口にした。
母も2人のコーチも、口をそろえて言うのは「気を遣う、心優しい子」。天性のスケートのセンスがある一方で、高橋の性格は、世界の強豪と戦うアスリート としては弱かった。しかし気持ちが弱いからこそ成長しようとする、そのひたむきさを、多くのコーチやファンが支える20年だった。
「ガラスのハート」と呼ばれていた
スケートを始めたのは、8歳の時。地元、倉敷のスケートリンクで佐々木美行コーチの下、中学生までスケートを習った。ジャンプもスピンも上手で、ひときわ器用なステップで楽しそうに滑る選手だった。
「クリクリとした目の可愛らしい子でしたね。まだ大輔君がスケートを始めた20年前は、男子はマイナーな競技だったからこそ、ひどい点数を取っても『よー し、今度こそ頑張ったら先生、ごちそうしてくれる?』などと言いながら、楽しんでスケートを頑張った地元での10年でした」
天真爛漫(らんまん)な高橋を世界の舞台へと引き上げたのは、長光歌子コーチだ。中学2年となった99年のこと。体から音楽が聞こえてくるようなスケーティングをする高橋を一目見て、長光コーチは「この子の滑りを世界中の人に見てもらいたい」と決意した。
高橋を自宅に住まわせ、二人三脚での競技人生をスタート。まだ少年だった高橋は、こんなことをいって長光コーチを驚かせた。
「先生、僕はここに来るまで、いろいろな方に支えられてきたけれど、どんなふうに恩返ししたらいいでしょう?」と。長光コーチは「頑張って練習して、成績を収めることが恩返し」と伝えた。
02年世界ジュニア選手権では日本男子初となる優勝を飾るが、シニアに上がってからは成績不安定に。気の優しい性格から本番に弱く「ガラスのハート」との汚名まで着せられた。
苦境を乗り越え日本のエースに
しかし長光コーチは諦めなかった。2人でアメリカに渡り、ニコライ・モロゾフのもと起死回生を狙ったのだ。どん欲で厳しいロシア人コーチの指導で、それまで普通の高校生のように遊びたがっていた高橋も、表情が変わった。
05年12月のグランプリファイナルのこと。日本男子初となる3位に入り満足げな高橋に、モロゾフは「お前は3位で満足しているのか?」と聞いた。高橋 が「満足している!」というと、「お前はバカか! 世界の頂点を目指す者が、3位で満足するな」と怒鳴った。高橋の欲のなさを、モロゾフが刺激し続けた。
トリノ五輪は8位。十分な成績だったが、荒川静香から、彼女が獲得した金メダルを首にかけてもらって初めて欲が湧いた。
「自分はただ緊張して興奮していたけれど、荒川さんは落ち着いていて、自然体で、心から五輪を楽しんでいた。次のバンクーバーでは、僕もあんなふうに五輪を過ごして、そしてメダルを取りたいな」
バンクーバーまでの4年は、さらに波乱に満ちていた。08年春には、モロゾフが織田信成も指導することになり、「ライバルと同じコーチというのはキツ イ」と言ってモロゾフと袂を分かった。自分だけを見ていてほしい、という心の弱さが抑えられなかった。その秋、右膝のじん帯と半月板を損傷。1年にわたる 過酷なリハビリをへてバンクーバー五輪シーズンに復帰する時には、茶髪を黒く染め、決意に燃える目で現れた。
「ケガの前は、コーチと離れたこともあってメンタルがいっぱいの状態でした。今はケガをしたことが、五輪につながる、プラスになった、と確信しています」
この時、23歳。少年の幼さが完全に消え、日本のエースの貫禄を身につけていた。
10年バンクーバー五輪で日本男子初となる銅メダルを獲得すると、スケートの寿命を考えれば引退してもおかしくないとささやかれた。しかし、こんなふうに後輩へ気を遣った。
「引退も考えました。でも今の自分は『つなぐ』ということをやらなきゃいけない。注目されることがいかに幸せか、僕は分かる。次の世代が苦労しないようスケート人気をつなぎたいです」
周囲への感謝を伝えたソチ五輪
それから4年。スケート人気を高橋がけん引するかたわら、次世代の羽生結弦(ANA)もめきめきと力を伸ばしてきた。12年全日本選手権では、羽生に越されての2位。若手の勢いに、気持ちで押された。
「僕もあれくらい鼻息が荒かったらなあ。“勝ってやる”とか思えたら若いころから成績を出していたのかも」。悔しさよりも、苦笑いが先に漏れた。
ソチ五輪シーズンが始まるころ、高橋は五輪に向けて焦るでもなく、躍起になることもなく、ただ周囲への感謝の言葉を伝えるようになっていた。
「長光先生が引っ張ってきてくれたお陰で27歳までスケートをしてきました。師弟関係は超えていて、第二の母。恥ずかしいですけど。一番大変な思春期まっさかりに、2人で海外に行ったし、先生は本当に大変だったと思います」
そして3度目の五輪となるソチ大会は、ケガが悪化した状態で臨むことに。順位は6位だったが、それでも晴れやかな表情での演技が、観る者の心を打った。
「皆さんに良い報告ができなくて残念ですけれど、もう(自分を)受け入れるしかないので、笑顔になったのかなと思います。お客さんも日本から多く来てくだ さいましたし、そういった人に向けても精いっぱいやりたかった。いろいろな思い出がありますが、自分にとっては最高のソチでした」
その後、世界選手権はケガのために棄権。「1年間の休養」宣言をした。引退を決意したのはそれから半年後の9月中旬。長光コーチにその思いを打ち明けた。長光コーチはこう語る。
「2人ともドライなので、泣いたりしませんでした。ただ一言、お疲れさまと伝えました」
10月13日の夜、佐々木コーチと母の清登さんに、高橋は電話で「明日、引退を発表するから」と伝えた。母は「半分ほっとした気持ち、よく頑張ったなという気持ち、ちょっと寂しいなという気持ち。でも本人から聞けたのでうれしかったです」という。
晴れやかに響いた引退の言葉
一夜明けた14日は、台風19号が去った台風一過の晴天に。引退会見は、地元の岡山での式典後を選んでいた。母と2人のコーチと「3人の母」も登壇し、 いつになくアットホームな雰囲気で会見は始まる。3人の母は綺麗におめかしをして、引退というよりも、新しい門出のお祝いだ。高橋の「引退を決意しまし た」という重たいセリフも、晴れやかに響いた。
長光コーチは「彼は十分に皆さんに恩返しできたんじゃないかと思います。血はつながっていませんけれど家族の1人のようなもの。今後もうるさいオバサン のままでいたいと思います」と笑顔。佐々木コーチも「大輔君の後ろ姿はしっかり後輩に受け継がれています」と言い、地元の子どもを引き連れ、高橋や長光 コーチに花束を渡した。
母の清登は「歌子先生には迷惑をかけましたが、安心してお任せしておりました。本当に大輔はいい人に巡り会って、産んだのは私なんですけれど、育てて下さったのは2人のコーチの力が大きかったですね」
3人の母が交互に労をねぎらい、高橋は終始照れ笑い。そして最後にこう挨拶した。
「ファンの方の心の準備がないままに引退という形をとってしまって、申し訳なく思います。1年考えてから(引退を)言おうかと思ったのですが、これから他の選手がモチベーションを上げていく時期に言うよりも、シーズンが始まる前に発表しようと思いました」
ファンやライバルへの気遣いが、言葉の端々にもれた。
「気を遣い過ぎる、心優しい少年」と言われた高橋はやはり、現役最後の日も周りに気を遣った。高橋らしい引退だった。
朝日新聞デジタル編集部記者の奥山晶二郎さんのコラムにもありました。
高橋大輔を育てた「3人の母」 実母、名コーチと、地元の恩師
http://withnews.jp/article/f0141014001qq000000000000000W0080501qq000010974A#
高橋大輔さんは「3人の母」に育てられたと言われます。実母の清登さん、コーチの長光歌子さん。もう一人は、小学生だった高橋選手の才能を見いだした地元岡山のスケートクラブの指導者、佐々木美行さんです。
母・清登さん バイトしリンク代・遠征費を工面
実母の清登(きよと)さんは、お金のかかるフィギュアを弁当作りのアルバイトをして支えました。小学生 のころ、1万円もするアイスショーを見せてあげたこともありました。その時、目を輝かせて帰ってきた高橋さんを見て、清登さんは「どんなに苦労してでもス ケートをさせてあげたい」と心に決めたそうです。地元で指導・佐々木美行さん 小5の時に頭角、育て上げる
もう1人、高橋さんの才能を見いだしたのが、地元の岡山のスケートクラブで指導した佐々木美行さんです。佐々木さんがいなけば、今の高橋大輔さんはいなかったといっても過言ではありません。スケートを習い始めた小2の頃は泣き虫だったという高橋さん。頭角を現したのが小5の時でした。回転の速いスピン、エッジを利かせたステップ。佐々木さんは、高橋さんに積極的に声をかけ、スケートクラブのトップとして育て上げました。
94年、小学2年の高橋選手が通い始めた。目がくりくりした恥ずかしがりやで、友達のランドセルを持たされて下校する泣き虫だった。頭角を現したのは小5の時。スピンの回転が速く、軸のしっかりしたジャンプを跳び、エッジを利かせたステップでひょいひょい滑った。
出典: 2010年5月24日:(人ひと)メダリスト育てた倉敷FSC監督 佐々木美行さん [朝日新聞紙面から]
コーチ・長光歌子さん 音楽表現、才能に確信
高橋さんの才能を開花させたのが、中学2年から指導するコーチの長光歌子さんです。2004年の全日本選手権、スランプと故障で力が発揮できず6位に沈んだ時がありました。長光さんは、スケート連盟に掛け合い、本来は出られないエキシビジョンに出演させます。高橋さんは特別扱いに反発しますが、長光さんは強引に滑らせます。 「自由に動けた。滑るのって楽しい」。自分で振り付けた作品を滑った高橋さんは、自分にはスケートしかないと再確認したそうです。
日本男子にはない、音楽表現ができる高橋さんの才能を誰よりも知っていた長光さんならではの配慮でした。
長光も必死だった。最初の出会いから、これまでの日本男子にはない音楽表現ができる高橋の才能に気づいた。「誰もが持っているわけではないものが、彼にはある。いつか世界の表彰台に上れる。大輔がスケートをやめたら、わたしの責任。ねじ伏せてでも、出そうと思った」
出典: 2007年5月12日:(逆風満帆)フィギュアスケート・高橋大輔:中 厚かったシニアの壁 [朝日新聞紙面から]
最後の歌子先生のお話、テレビの特番の動画で一度だけ見たことがあります。
大ちゃん、それに出て、滑ることはやっぱり楽しいって感じた、みたいなことを言っていたと思います。
多分、前のPCのアーカイブズに入っているはず・・・・・・
と、「お母様たち」のお話はこれぐらいにして。
「兄貴」の話です。
新しい門出★髙橋大輔
http://ameblo.jp/marienbethkyoryuchi/entry-11939283905.html
CHAIさん、ありがとうございます。
コメント欄にも書きましたが、私がマリベスを読むようになったので、
ブログを書き始めた頃かな?と思います。
アメンバー承認もギリギリでさせていただいて。
以来の大ちゃんは欠かさず見ているつもりです。
でも、過去の大ちゃんの記事になると、全てを見たとは言えないかもしれません。
こうやって懐かしいお写真を並べていただいたのは、
率直に嬉しかったです。
CHAIさんは大ちゃんのお兄さんではありません。
当たり前ですが、
私には、
CHAIさんが、時には、心のお兄さんのように思えてなりません。
その時その時の大ちゃんを、
あのクラシックドア店というあたたかい空間で受けとめていたことを、
このブログを読むことで感じていたからです。
マリベスは私も2回ほどお邪魔させて貰いました。
もともとヘッドスパなどは興味があるので、そちらを必ずして貰ってから、
CHAIさんにヘアスタイルを整えて貰いました。
普段は、面倒くさがりなので、ストレートに伸ばしているだけの私ですが、
CHAIさんの手にかかるとあっという間に別人になり、
一両日中に元に戻ってしまうと言う・・・哀しい私のスタイリング能力なのですが(ノД`)
ヘッドスパの時も、CHAIさんにしていただいている時も
マリベスの時間はあっという間に過ぎていくのですが、
とてもリラックスした、髪にも心にも心地良い空間と時間だったことを覚えています。
だから、また行きたいですね・・・
年に一度ってペースだけどね(苦笑
CHAIさんの大ちゃん評。
激しく同意です!
そして、頭の片隅に。
私はそーっとと言うより、堂々と置いていようと思います(ワラ
家族編は以上。
そうそう、大ちゃん2000days更新ですね。
https://www.facebook.com/2000days.beSOUL3?fref=nf
また後で、記事を上げようと思うのですが、
ちょっと遅くなるかもしれませんので、ここに一応貼りつけておきました。
でも、このお写真の大ちゃんのお顔・・・そして、言葉。
思わせぶりな、でも、今の率直な気持ち。
ちょっと揺れました、気持ちが。
読んでくださり、ありがとうございます。
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