敬意を表して。
満足感にじませる高橋「諦めずにやったので、やりきった気持ち」
http://www.sponichi.co.jp/olympic/news/2014/02/15/kiji/K20140215007592981.html?feature=related
高橋は演技の出来には悔しさも見せたが、3度目の五輪を終えて満足感をにじませた。
――滑り終えて。
「五輪で最高の演技を見せることができなかった。今回は本当にきつかった。かなり大変だった。これが自分の実力。最後まで諦めずにやったので、気持ちとしてはやりきったかな。出たくてもなかなか出られない中、3回も五輪を滑ることができて良かった」
――五輪の存在は。
「五輪は一つの区切りの大会。そこに合わせるのは大変。最高に楽しいけど、最高にきつい舞台だった。アスリートにとって一番やりがいを感じる舞台だと思う」
――金メダルの羽生に。
「これからは彼が日本を背負っていく。五輪の金メダリストが出たことは一スケーターとして誇りに思うし、引っ張っていってほしい」(共同)
高橋6位 羽生にエースのバトン渡した!真央との“扱いの差”に「くそ~」と奮起
http://sochi.headlines.yahoo.co.jp/sochi/hl?a=20140216-00000014-dal-spo
「ソチ五輪・フィギュアスケート男子・FS」(14日、アイスベルク・パレス)
2010年バンクーバー大会銅でSP4位の高橋大輔(27)=関大大学院=は6位で合計250・67点の6位となり、3大会連続の入賞を決めた。最後と決めた五輪で無念さをにじませつつも、笑顔でリンクを後にした。
すべての人への感謝を込めた滑りだった。万全ではない右膝を考慮し、4回転ジャンプを2本から1本にし、すべてを懸けて臨んだ冒頭。回転不足となり、最後の五輪でのメダルは万事休した。それでも、どんな状況でも諦めなかった男の演技だからこそ、人々の心を打った。
フリー曲「ビートルズ・メドレー」とともに流れるようなステップ、万感のスピンを終えると、ホッとしたような笑みが浮かんだ。「これが自分の実力。終わったことは取り戻せない。でも精一杯、最後まで諦めずにやりました」
リンクの中が自分の居場所だった。子供のころはいじめられっ子。4人兄弟の末っ子で、甘えん坊の少年は学校の帰りはいつもカバンを持たされ、泣いて帰ってきた。それがスケートに出合い、競技に出るようになってからは変わった。氷の上で培った自信が、みるみる少年をたくましくした。
そこから長年男子フィギュア界を引っ張ってきた男には、夢があった。女子の競技として見られがちのフィギュア。「同じ結果を残したとしても、真央ちゃんとかの方が扱いが大きい。そういう時はくそ~って思っていた」。いつかは…。
今やフィギュア会場は女子よりも男子の方が熱を帯びる。高橋がけん引してきた男子は、今や世界トップレベルの選手を多数そろえるまでになった。そして、羽生結弦という五輪王者も誕生した。「これからは彼が日本を背負っていく。引っ張っていってもらいたい」と、新エースを称えた。どこか自らの役目を託すように‐。
右膝の状態もあり、3月の世界選手権(埼玉)出場は流動的。今季終了後に進退の最終決断を下すが、これが競技者として最後の演技になる可能性もある。「何があっても最後」と決めて臨んだ五輪だった。悔いがないといえば、うそになる。それでも高橋は「気持ちとしてはやりきりました」と、晴れ晴れと笑った。
2月14日。これは8歳の時、高橋が初めてスケートリンクで滑った日でもあった。まるで運命に導かれるように立った19年後の銀盤。スケートを愛し、スケートに愛されてきた男は夢舞台での戦いを終えた。
【フィギュア】大輔6位!羽生に“ゆづる”日の丸エース
http://sochi.headlines.yahoo.co.jp/sochi/hl?a=20140215-00000208-sph-spo
◆ ソチ冬季五輪第8日 ▽フィギュアスケート男子フリー(14日、アイスベルク・パレス) 10年バンクーバー五輪銅メダルの第一人者、高橋大輔(27)= 関大大学院=は2大会連続メダルを逃し、6位入賞に終わった。SP4位からフリーで6位に下がり、表彰台に4・43点届かなかった。最後の五輪を終え、羽 生にバトンを渡した。SP11位の町田樹(23)=関大=はフリーは4位で猛追したが、銅メダルまで1・68点差で涙をのんだ。2人は3月の世界選手権 (さいたまスーパーアリーナ)で、現役最後の試合に臨む。
センターポールに揚がる日の丸を見届け、大輔は笑みを漏らした。「これからは彼が日本を背負っていく。金メダリストが出ることは、日本の男子スケーター として誇りに思う」。表彰台の頂点に、19歳の羽生が立っていた。自分のことのように喜び、やさしい目で金メダリストを見つめた。
演技が終わる最後の瞬間まで「希望を捨てずにいった」。右ひざにけがを抱え果敢に跳んだが、表彰台に4・43点届かなかった。両足着氷となった冒頭の4 回転ジャンプのミスが悔やまれる。基礎点は10・30点。得点は2・10点だった。「終わったことは取り戻せない。この大舞台でできてこそ本物。僕の実力 だった」。唇をかみしめた。
華麗なステップとスピンは、最後まで健在だった。万感の思いを込めて、現役最後のフリー曲「ビートルズメドレー」を滑った。名曲「インマイライフ」が流れる場面では、スケートへの感謝の思いを込め頭文字の「S」を描いた。
羽生と同じ19歳だった頃、当時の第一人者だった本田武史に勝ち、バトンを引き継ぎ、1人で男子日本を引っ張ってきた。右ひざの手術を乗り越えた苦闘は10年に開花。五輪銅メダル、世界選手権、GPファイナルを制して男子日本初の快挙を達成。日本フィギュア史に1ページを刻んだ。気がつけば頭髪に白いものが交じっていた。
目指した五輪の金メダルには届かなかったが、表情は晴れやかだった。「オリンピックは最高に楽しい舞台ですけど、最高にきつい舞台。やりがいを感じられる場所です」。バトンを羽生へ渡す時が来た。「これからは引っ張っていってもらわないと困ります」。少し強い口調で、頼もしい後輩に未来を託した。
出し切った、後は託した 高橋、響いた足の故障
http:http://digital.asahi.com/articles/ASG2H619RG2HUTQP024.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG2H619RG2HUTQP024
高橋大輔は右足の状態が万全とは言えない中でも、4回転ジャンプに挑んだ
「あそこは外せない。希望を捨てずにいたかった」
結果は、ショートプログラム(SP)同様、180度以上回転が足りない上に両足着氷。それでも、気持ちをつないだ。
得意のステップでは、リズムと体をピタリと合わせた。
「そこだけは、攻めたい。力は出し切りたい」。観客を魅了した。
ただ、後半に入って跳んだトリプルアクセル(3回転半)ジャンプを再び両足で着氷した。
強気と弱気がせめぎ合うような、演技だった。
最後は穏やかな笑顔で空間を見つめた。
「受け入れるしかない。終わったことは取り戻せない。諦めずにやれた」
ソチ入り後、昨年11月に痛めた右ひざ下について、「痛みはないというか、まあまあ大丈夫です」と言った。ただ、その回復が順調ではないことは、誰の目にも明らかだった。
戦いを前にして本当のことは言えない、だけどうそもつきたくはない。そんな葛藤が見え隠れする。
演技を終えた高橋は言った。「気持ちとしては、やりきれたが、演技としてはやりきれていない。この大舞台でできてこそ、本物だなと思う。これが僕の今の実力」。けがを言い訳にすることはしなかった。
勝負師では決してなかった。
男ばかり4人兄弟の末っ子。祖父母にかわいがられた。海外の試合で、横断歩道を渡っている現地のおばあさんに一人寄り添った。「世界のトップを争うには優しすぎるのでは」。中学2年から指導する長光歌子コーチは危惧した。
2002年世界ジュニア選手権を日本男子として初めて制した。ソルトレーク五輪4位の本田武史に続く存在として大きくなっていく周囲の期待。一方で、本田が欠場した03年全日本選手権は、「国内の試合はやりづらい。出たくない」。そうコーチに訴えた。
少しずつ変わっていった。「女子だけ取り上げられるのは嫌。同じ成績を残したのだったら、同じように扱ってほしい」
フィギュアスケートの男子にも目を向けさせたい。そのためには成績を残さないといけなかった。
もう一つ、秘めた思いがあった。決して家が裕福ではなかった高橋は、周囲の支えがあってスケートを続けてこられた。「どうやって恩返しをしたらいい」と聞かれた長光コーチは、「まずは勝つこと」と2人で話したという。
世界選手権、グランプリファイナル、五輪メダリスト。この間、数々の「日本男子初」の記録を打ち立てた。
そんな高橋が唯一たどり着けなかった頂点。それがオリンピックだった。
「これから彼が、日本を支えていくと思う。メダリストが出たことを、日本男子スケーターとしてすごく誇りに思う」
8歳下の後輩、羽生の偉業を見届け、後を託した。(福角元伸)
高橋、羽生へ“バトン”「これからは彼が日本を背負っていく」
http://sochi.headlines.yahoo.co.jp/sochi/hl?a=20140216-00000055-spnannex-spo
◇ソチ五輪フィギュアスケート男子フリー(2014年2月14日 アイスベルク・パレス)
今大会に懸けた男たちの奮闘が終わった。10年バンクーバー五輪銅メダリストで五輪3度目の出場だった高橋大輔(27)=関大大学院=は冒頭の4回転ジャンプの失敗が響き、6位入賞にとどまったが、達成感をにじませた。日本男子はバンクーバー五輪に続いて3人全員が入賞した。
「ありがとうございました」。晴れ舞台で最後の演技を終えた高橋は、感謝の言葉を口にしながら、日の丸が目立つスタンドへ頭を下げた。
「出たくてもなかなか出られない中、3回もオリンピックで滑れて良かった。結果は悔しいけど、精いっぱいにやった」
昨年11月に古傷の右膝を再び痛め、直後の全日本は5位と振るわなかったものの、実績と国際大会の成績などを考慮され代表に滑り込んだ。だが、その後も調子は上がらず、不安を抱えたままソチ入り。追い打ちを掛けるようにSP使用曲の作者別人問題なども起きた。それでも「出るからにはトップを目指す」と自らを奮い立たせてきた。
勝負をかけた演技冒頭の4回転ジャンプは両足着氷で3回転の扱い。「2本跳ぶ選択肢はなかったけど、1本は決めたかった」。3回転半からの連続ジャンプでも着氷が乱れ得点は伸びなかった。ただ、表現力やスケート技術を評価する演技構成点では、銀のチャンに次ぐ2番目の高得点を引き出し、前回銅メダルの意地を見せた。「本当にきつかった。これが今の自分の力だと思う」
バンクーバー五輪で日本男子初のメダリストとなり、それを花道に現役引退することも考えた。だが、11年モスクワでの世界選手権でスケート靴のトラブルもあって5位に終わり連覇を逃した直後、競技者としての本能を呼び覚まされ、ソチまでの現役続行を宣言した。「バンクーバーでやめておけばよかったという人もいるけど、いいことも悪いこともあった。続けて良かった」
フリーの演技を終えリンクを出る際、笑顔で次滑走者の羽生と入れ替わった。「これからは彼が日本を背負っていく。五輪の金メダリストが出たことは一スケーターとして誇りに思うし、引っ張っていってほしい」。7歳で初めてスケート靴を履いて、ちょうど20年。日本の男子スケート界をけん引してきた男は静かに靴ひもをほどいた。
いつかは書こうと思っていた記事です。
一旦ここで書いておかなければと思って書きます。
これからは彼が日本を背負っていく。
五輪の金メダリストが出たことは一スケーターとして誇りに思うし、引っ張っていってほしい。
正直、これを言える大ちゃんを本当にリスペクトしています。
競技直後でありながら、
複雑な心境を吐露しながらも、
若き金メダリストに贈った言葉。
引っ張っていってほしい。
この言葉の重み。
昨日の「スポーツ酒場」に出た武史先生の言葉からも感じました。
前回バンクーバーで髙橋が獲った、まあ、次は金メダル欲しいな、て言う感じで
私の中では、もっと付け足したい気分でした。
大ちゃんの前の武史先生のソルトレーク五輪の4位、
インスブルック五輪の稔先生の9位、
五十嵐先生や佐藤先生、他の日本男子のワールドや五輪の記録。
これらの日本男子の歴史があるからなんですよね。
だから、次は、て。
そのクロニクルについて触れた記事があったので、貼りつけます。
羽生の金 本田氏、高橋大輔が一歩ずつ
http://www.daily.co.jp/opinion-d/2014/02/16/0006712174.shtml
ソチ冬季五輪で、男子フィギュア初となる金メダルを羽生結弦
選手が獲得した。人気、実績とも女子に先んじられてきた中での悲願の頂点だ。この栄冠は、ソチを最後の五輪としている高橋大輔、そして、高橋の前に男子
フィギュアを引っ張ってきた現解説者の本田武史氏が、一歩ずつ歩を進めてきた末にたどり着いたものだ。
長野、ソルトレーク五輪代表の本田氏は、14歳の時から日本のエースだった。16歳で長野に出場。国内開催でメダルの期待もかかったが、15位に終わった。まだあどけなかった少年は、母の手作りした着物風の衣装を身につけて一人重圧と戦った。
ソルトレークでは4位とメダルを逃したが、その年の世界選手権では3位。佐野稔以来となる銅メダルを獲得した。世界のトップで戦えるたった一人の日本男子として10年近くを過ごした。
高橋もまた、一人で走ってきた。トリノ五輪の2シーズン前の世界選手権で、エース本田が故障して棄権。五輪出場枠は世界選手権の出場選手の順位によって決まるため、高橋一人にトリノの日本男子出場枠が託された。しかし、結果は15位。トリノの男子出場枠は1つとなった。
19歳で初五輪となったトリノで高橋は、「自分が枠を1つにしてしまった。結果を出したい」と責任感を口にしていた。しかし、重圧は振り払えず転倒して8位。当時の代名詞は「ガラスのハート」だった。
本田氏の引退を受けて日本のエースとなった高橋だが、これは実績的にも急激な世代交代だった。当時はあまりに大きな荷を背負わされた印象だった。その後、
織田信成、小塚崇彦らが台頭し、男子の層は厚くなり、高橋はバンクーバーで日本男子史上最高位となる銅メダルを獲得した。
しかし、彼の存在によって、羽生が本田氏や高橋のように、たった一人で重圧を背負うことはなかったはずだ。記者には高橋が痛む右足で、自身が初めて五輪に出場した時と同じ19歳の羽生を支えているように見えた。
羽生の金メダルを伝えたテレビ中継で解説した本田氏は、努めて冷静さを装っていた。羽生の前に演技を終えた高橋は、解き放たれた笑顔を見せた。本田、高橋の2人のエースは、見事に羽生にその座を禅譲した。
(デイリースポーツ・船曳陽子)
こちらの記事は、男子の前に書かれた記事です。
佐野稔、本田武史、高橋大輔、日本男子フィギュアの歴史
プレーバック五輪 第8回
http://sochi.sports.yahoo.co.jp/column/detail/201402050008-spnavi
日本男子フィギュア界には、その歴史の一ページに世界の舞台で輝かしい結果を残したエースと呼ぶにふさわしい選手が3人いる。
1977年の世界選手権・東京大会で日本人初の銅メダリストに輝いた佐野稔。2002年、03年の世界選手権で2大会連続の銅メダルを獲得した本田武 史。そして、10年バンクーバー五輪で、日本男子フィギュア初の五輪のメダルとなる銅メダルを手にし、同年の世界選手権でチャンピオンとなった高橋大輔 だ。
全日本選手権で佐野は5連覇を成し遂げ、本田は6度の優勝を誇り、高橋は3連覇を含めた5度の優勝を飾っている。いずれの選手もそれぞれの全盛時代に日本男子のエースの座に就いた。
そしてこの3人の大先輩であり、50年代から60年代に現在も破られていない全日本選手権10連覇を達成し2度の五輪出場を果たしたのが、現在浅田真央のコーチを務める佐藤信夫だ。
2010年に世界フィギュアスケート殿堂入りした佐藤が「日本男子でエースと呼べるのは、佐野、その次は本田、そして高橋と言っていいでしょう。彼らが エースになるには強力なライバルたちがその時代にいたから。欧米の選手が席巻していた時代に常識を覆す世界3位という偉業を達成した佐野にも松村(充)や 五十嵐(文男)がいましたね。ライバルなくしてはエースにはなれませんよ」と指摘するように、エースの存在の裏では、その座を争う競争相手が時代を支えて いたという。
それぞれの時代とともにジャンプも進化を続けている。佐野は日本男子として初めて世界選手権で5種類の3回転ジャンプをパーフェクトに跳ぶ、オールラウ ンダー型のスケーターだった。しかし、その時代には男子でもまだトリプルアクセルを跳ぶ選手はいなかったという。その後、佐野が引退した翌年の78年にカ ナダの男子選手が初めてトリプルアクセルを成功させると、88年には日本の伊藤みどりが女子選手として初めてトリプルアクセルに成功。そして現在は、3回 転主流の時代から4回転の時代に突入している。
64年に米国の選手がトリプルトゥループを成功させてから24年後の88年、カナダのカート・ブラウニングが4回転トゥループを初めて跳んだ。また、 ルッツは62年にカナダ選手が初めて3回転を跳んだ49年後、2011年に米国のブランドン・ムロズが4回転ルッツを成功させた。このように、ジャンプの 種類によって3回転から4回転への進化の度合いはまちまちだが、あと数年もすれば男子では2、3種類の4回転が当たり前になる時代がやってきそうだ。
すでに4回転時代に突入している男子フィギュアの現在。ソチ五輪ではこの4回転ジャンプの成否によるメダル争いが展開されることになるだろう。
歴史は動く。
確実に日本男子フィギュアの歴史も動いていたのです。
動かしているのは、それぞれの選手のもつ気持ち。
歴代の先生方がどのような思いだったかは、今すぐにはわかりません。
おいおい調べていければと思います。
大ちゃんは、読売新聞のリスペクトな質問に対してこのように答えています。
髙橋大輔というエースが世界で日本男子の道を切り開いてきたからこそ、手にできた金メダルでは。
髙橋 そう言ってもらえると救われる。でも、僕は自分に負けたくない、勝ちたいという一心でやってきた。それが結果的に、日本男子を強くすることにつながったのなら、うれしい。
自分が背負ってきた重みを知っている。
でも、負けん気の強さと勝ち続けることでの恩返し、
その一心が彼を強くしていた。
そして、佐藤先生も言う
ライバルなくしてはエースにはなれませんよ
大ちゃんの周りには、織田くんがいて小塚くんがいて無良くんがいて町田くんがいて、
大勢の日本男子のライバルがいた。
これは、大変だけどいい時代。大ちゃんも言って」ました。
だから、余計、勝ちたかったんでしょう。
正直言えば、今回だって足が・・・
まあ、それは別のところで書きます(^_^;)
その大ちゃんが受け入れたこと。
結弦くんが金メダルを獲ったこと。
そして、
ここから、引っぱっていってもらうこと。
勘違いだったらごめんなさいだけど、ちょっとそんな雰囲気を感じるインタビューです。
動画主様、ありがとうございます。お借りします。
9:13からです。
20140215
http://www.youtube.com/watch?v=-mBsKbNDHOM
結弦 でも、僕はまだ若輩者ですし、あの、若手なので、本当に髙橋さんらの先輩方がいたからこそ、僕はここまでできたんだなあと思ってます。ありがとうございます。
大輔 よう、言いますわ。めちゃ、強いですからね。ハート、めちゃめちゃ強いですからね。
ほんと、今更よう言いますわ。
大ちゃんの言う、その強さで引っぱっていってもらわないと。
エースとはそういうもの。
なんだけどね・・・
真のエースとは。
私にできることは、大ちゃんが託したものを
できる限り、見 続けることだけです。
だから、男子フィギュアを応援し続けようと思っています。
ちなみに、
敬意を表している相手は、読んでくださった皆さん、わかりますよね。
それにしても、この写真。
今では、サイトで見られなくなっていたなんて(。・ω・。)
とっておいて良かったわ。
競技終了後、モロゾフ・コーチ(右)に涙をぬぐってもらう高橋
だったんですね・・・
このお写真。
実はtwitter上でこのお写真だけが一人歩きしていて、どこの記事から来たんだろう?
と思っていたらこちらからでした。
実はニコライと大ちゃんのお写真が結構、そこかしこにあって、
ニコライが優しげに見えるんです。
と最後は和めたかな?
読んでくださり、ありがとうございます。
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