ただその一言。
とりとめなく記事を貼りつけていきます。
<五輪フィギュア>高橋、メダル逃す
http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20140215k0000m050206000c.html
ソチ五輪第8日の14日、フィギュアスケートの男子フリーが行われ、ショートプログラム(SP)4位だった前回バンクーバー五輪銅の高橋大輔=関大大学院=がフリーで164.27、合計250.67点で暫定4位となった。高橋は2大会連続のメダルを逃した。
SP11位の町田樹(たつき)=関大=は、フリーで169.94、合計253.42点で暫定3位。
この後、SPで世界歴代最高記録を出して1位の羽生結弦(はにゅう・ゆづる)=ANA=は21番目に登場する。
高橋大輔の五輪終わる…最後の大舞台はメダル届かず6位
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/02/14/kiji/K20140214007592160.html
今季限りで現役を退く高橋大輔(27=関大大学院)は、フリーで164・27点をマーク。トータル250・67点となり、6位。メダルには届かなかった。
SP4位ながら、3位のフェルナンデス(スペイン)とは0・58点差で逆転圏内だったが、SPと同じく冒頭の4回転で着氷がやや乱れた他、小さなミスが出て得点は伸びず。「出来としても成績としても満足のいく出来ではなかったです」と涙ぐんだ。
昨年のGPファイナル前に痛めた古傷の右膝は万全からは程遠い状態で、今大会直前にはSP使用曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」の作曲者別人問題も起きた。それでも「いろいろな思いが詰まった3度目の五輪。何があってもこれが最後。今、できることを精いっぱいやりたい」と雑音をシャットアウトして臨んだ集大成の五輪だった。
逆境の中でも最後まで全力で滑りきったことは自身でも評価。「ニコライ(モロゾフコーチ)も長光(歌子)コーチも最後まであきらめるなといく前に言われましたし、自分自身かなりきつかったですけど、気持ちだけはあきらめないで最後までやって良かったと思います」と安どの表情を浮かべた。
10年バンクーバー五輪銅メダル、同年世界選手権金メダル、12年GPファイナル優勝など高橋が刻んだ“日本男子初”は数多い。最後の大舞台となった3度目の五輪ではメダルこそ逃したものの、日本男子フィギュアを長らく引っ張ったエースとしてしっかりと足跡を残していった。
ソチくまが、笑っている!
このくまが欲しいけど、大ちゃんにしか作れないww
大ちゃんの過去のリスペクト。
ホッとします。
ここからは、大ちゃんの周囲の人たちの記事。
フィギュアとともに「強い子」に=高橋選手に家族の愛〔五輪・フィギュア〕
http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2014021500067
【ソチ時事】フィギュアスケート男子の高橋大輔選手(27)=関大大学院=が14日に臨んだ集大成のフリー。「ビートルズ・メドレー」に乗った演技の終盤に、両手を使ってハートを形づくる。スケート人生を支えてくれた人々への感謝の思いは、家族にも向けられている。
男ばかりの4人兄弟の末っ子に生まれた高橋選手。子どものころは恥ずかしがり屋の泣き虫で、よく女の子にも泣かされていた。「強い子になってほしい」と、両親がスポーツを手当たり次第やらせてみたところ、唯一本人が興味を持ったのがフィギュアスケートだった。
地元倉敷市と岡山市のリンクに、お正月も休まず通った。休んだのは中学一年で盲腸の手術をした時だけ。フィギュアには用具やリンク代などがかさみ、職人の父の給料だけでは生活は楽ではなかったため、母の清登さん(64)も昼は理容室、夜は弁当屋で働いて、費用を捻出した。
苦労はあったが「親も送り迎えとか大変だから、やめたらいいのになあと思うこともあったが、一日も休まなかったのは大ちゃんの自慢かなと思っている」と清登さん。フィギュアに打ち込む姿が、うれしかった。
高橋選手が2度、フィギュアをやめたいともらした。1度目は高校生、2度目が右膝に重傷を負った6年前だった。2度目のとき、母は「周りの人にも助けられている。やめるわけにはいかないだろうね」と答えたという。
息子のつらい状況も分かっていただけに、「『やめていいよ』と言えなかったのは、かわいそうかなというのはあった」と清登さん。高橋選手はけがから復帰し、4年前のバンクーバー五輪で銅メダルをつかんだ。今回は6位に終わったが、両親の願い通り、強い大人に育った。
1月、神戸市であったイベントで、高橋選手が口にした。「自分でもすてきな母だと思う。多分ああいう人を奥さんにもらうと思います」。それを伝え聞いた清登さんは「言わされたんじゃないんですか」と苦笑いした。心の底からうれしそうだった。(2014/02/15-05:14)
高橋大輔らの母校でPV 母・清登さん「私の中では金メダル」
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2014/02/15/kiji/K20140215007592800.html
男子フィギュアの高橋大輔と町田樹の母校、岡山県の倉敷翠松高校では、体育館でソチからの生中継をPVで観戦。保護者、生徒、教員ら約150人が声援を送った。
高橋大輔選手の母、清登さんも最前列で声援を送った。高橋はメダルには届かなかったが6位入賞。清登さんは「表情がすごく優しくて、楽しそうに滑っていた。私の中では金メダルをあげたい」と、息子をねぎらった。
生徒会副会長の山崎胡桃さん(16)は「メダルは取れませんでしたけど、2人とも堂々としていました。私たちにとって、尊敬できる先輩です。とても刺激になちます」と話した。
時事の記事は、あまり聞いたことがない内容もあり、へーと思いました。
高校生の時もやめたかったのか・・・
ジュニアで優勝して、その後、低迷していたからね。
歌子先生と武者修行の旅に行ったりしたし。
そんな頃なのかな?
お母様は、やめていいよ、と言えなかった。
お母様も辛かっただろうな。
でも、いろいろ考えたのだろうな。
やめるのは簡単だけどやり直すのは簡単でない、とか。
私だったらそういうところかな。
金メダルを上げたい
お母様の心からの言葉。
素敵です。
「大ちゃん、ありがとう」=高橋選手の身近な後輩〔五輪・フィギュア〕
http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2014021500173
大ちゃん、ありがとう-。ソチ五輪のフィギュアスケート男子フリーに臨んだ高橋大輔選手(27)=関大大学院=の演技を、同選手と一緒に練習してきた身近な後輩が15日未明、大型スクリーン越しに万感の思いで見守った。大阪府吹田市の関西大学千里山キャンパスで行われた応援会に参加した社会学部4年の国分紫苑さん(22)。昨秋までアイススケート部の副主将を務めた。
国分さんは大学入学時から、高橋選手と同じ長光歌子コーチ指導の下でフィギュアスケートを続けてきた。同選手の素顔をよく知る一人だ。
今シーズンの高橋選手について、「言葉には出さないけれど、集大成を意識して練習していたと思う」と国分さん。いつもと微妙に異なる緊張感があったようだ。「でも、普段はとても優しい先輩。それが大ちゃん」。スケート部の皆が「大ちゃん」と呼び、友だちのように接していたという。
高橋が足のけがに苦しんだ姿も目の当たりにしてきた。だからこそ、フリーの演技は「ずっと泣きながら見ていた」と言う。「ショートプログラムはちょっと元気がなかった感じがしたけど、フリーはすごく良かった。感動し過ぎて、言葉にならない」。目に涙を浮かべ、感慨深げに話した。(2014/02/15-10:07)
五輪フィギュア:高橋の負傷知る後輩「苦しかったと思う」
http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20140215k0000e050291000c.html
ソチ五輪フィギュアスケート男子で5位に入賞した町田樹(たつき)選手(23)と6位入賞の高橋大輔選手(27)。恩師らは、3回目の五輪に臨んだ高橋選手をたたえ、初挑戦の町田選手には今後の活躍に期待した。
岡山県倉敷市で7歳の高橋選手に最初にスケートを教えた倉敷FSCの佐々木美行(みゆき)監督(57)は何度転んでも立ち上がって練習していた姿を覚えている。地元で開かれた観戦会で見守った佐々木監督は「夢を与えてくれた。感動をありがとうと伝えたい」と話した。
関西大のリンクで高橋選手と一緒に練習した関大アイススケート部前副主将で4年の国分紫苑(こくぶん・しおん)さん(22)は、五輪直前まで右足のけがを気にしていた高橋選手を見てきた。国分さんは「本当に苦しかったと思う。それでも観客を引き付ける最高の演技だった」と涙ながらに話した。
大阪府内のスケート用品店店長、田山裕士(ひろし)さん(54)は2008年ごろから町田選手のスケート靴の調整に携わり、先月末も本番で使う靴の刃を研いだ。自宅でテレビ観戦した田山さんは「後半のジャンプはきちんと跳べていたのでホッとした。さらに上を目指してほしい」と期待した。
高校まで地元・広島で町田選手と一緒に練習した佐野隼規(じゅんき)さん(25)=東京都小平市=は「いつもスケートに真摯(しんし)に向き合っていた。まずはお疲れさまと伝えたい」とねぎらった。【平川義之、新宮達、高橋咲子】
スポプラのファーストショットに出ていた紫苑ちゃん。
丸顔の可愛い女の子ですよね。
大ちゃんの関大の練習や合宿ではよく見かける女の子です。
だから、大ちゃんの様子もつぶさに見て来たわけで。
涙なくして見られなかったのだろうな、と思いました。
【ソチ五輪】苦労と支援刻まれた20年 高橋、背中で伝えるメッセージ フィギュア
http://sankei.jp.msn.com/sochi2014/news/140215/soc14021515200047-n1.htm
14日(日本時間15日未明)に行われたフィギュアスケート男子フリーで、6位入賞した高橋大輔(27)=関大大学院=は「最高の演技をみせられなかったのが残念」と悔しさもにじませつつも、すがすがしい笑顔をみせた。高橋が少年時代の日記に「スケートリンクに初めて行った」と記したのは20年前の2月14日。初めてスケート靴を履いてからちょうど20年目のその日に、集大成となる3度目の五輪を終えた。
岡山県倉敷市出身。4人兄弟の高橋家は裕福ではなく、練習費用などの捻出は簡単ではなかったという。とび職の父、粂(くめ)男(お)さん(68)と理容師の母、清(きよ)登(と)さん(64)は共働き。清登さんは弁当店のパートを掛け持ちして高橋を支えた。
「本人が頑張っているから、『辞める』と言い出すまでは少しでも足しになれば」と清登さん。粂男さんがスケート靴のエッジを研ぎ、兄たちも末っ子の高橋をかわいがった。試合用の衣装は清登さんの姉が製作。一家総出で応援を続けてきた。
地元の支えもあった。高橋が幼いころ、清登さんの理容室のお客さんたちが「大輔が練習するときのジュース代にでも」と、釣り銭を寄付してくれた。ペットボトルに「がんばれ!大輔!!」と書かれた募金箱。貯まったお金は高橋が毎日通うリンク代などの資金となった。
それだけに地元への思いは強い。恩師で、倉敷フィギュアスケーティングクラブ監督の佐々木美行さん(57)によると、高橋は毎年、クラブの子供たち全員に直筆の年賀状を送っているという。佐々木さんが「大変だからいいよ」と止めても「これはやらせて」と続けているといい、憧れの選手からの年賀状に子供たちは飛び上がって喜び、励みにしているという。
けがを乗り越え、たどり着いた今回の五輪。集大成となる五輪の演技も、後に続く子供たちの心にしっかりと刻まれた。
高橋大輔の集大成に「お疲れ様」 敦賀の合宿先管理男性も万感
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/sochiolympic2014/48651.html
ソチ冬季五輪フィギュアスケート男子6位となった高橋大輔選手と親交がある福井県敦賀市のニューサンピア敦賀アイスアリーナの山田哲生さん(59)は「けがに苦しんだが、演技からは集大成という思いが伝わってきた。お疲れさまと言いたい」とねぎらった。
高橋選手は銅メダルを獲得した2010年バンクーバー五輪の翌年、ニューサンピア敦賀で2度合宿した。リンクを管理する山田さんは、氷の硬さやフェンスの色などを世界選手権の会場と同じにした。高橋選手は「そこまでしてくれた練習場は初めて」と感謝した。12年も練習に訪れた。
山田さんは「普段は明るい好青年。スケート靴を履くとスイッチが入る」と印象を語る。悩み、苦しみながらも練習する高橋選手の姿が今も目に焼きついている。
ソチ五輪では、けがの影響で4回転ジャンプを1度も成功できなかった。ショートプログラムで滑る音楽の作曲者が別人と判明する騒動にも巻き込まれた。「悔しさもあると思うが、いろんな経験があるから表現力は誰にも負けない。これが最後の滑りという気持ちも伝わってきた」と山田さん。3月には関大のリンクに会いに行く予定だ。
20年前の2月14日から20年。
大ちゃんと関わってきた人はどれぐらいいるのだろう?
敦賀のリンクの人のコメント記事を見つけた時は、あら、そう言えば・・・
みたいで嬉しい気持ちでした。
敦賀のリンクと言えば、東日本大震災の時に練習していたリンク。
悩み、苦しみながらも練習する高橋選手の姿が今も目に焼きついている。
この時の様子は『SouL Up』(祥伝社)に書いてありました。
実は敦賀合宿に入った3月は靴のかかと部分が壊れたり、直しても合わなかったりで悩まされ、調子が狂い、まともな練習がほとんどできず絶不調だった。
このままでは世界選手権はまたもや、出るのはもうやめよう状態。
そんなさなか試合がなくなったことで、緊張の糸がプツッと切れてしまった。
なんとなくシーズンが終わって、自分は必然的に現役続行なのか・・・。
本来ならオリンピックシーズンの翌シーズンの今シーズンは休みたかったけれど、世界選手権が日本開催だから、という理由でやってきただけに自分の気持ちも微妙だったし、開催日程も曖昧で、宙ぶらりん状態でもあった。
髙橋大輔『SouL Up』(祥伝社)p.150
悩んでいた大ちゃんの姿は、端からみている人にもわかったのですね。
それにしても、
この時の大ちゃんも
靴のことやら上がらないメンタルと戦っていた。
日本開催の世界選手権。
今季の世界選手権も奇しくも日本開催。
そう言えば震災だったから、この年に開催が持ち越されたんでしたね・・・
今気づいて、ちょっと不思議な符合を感じるような・・・・・・?
まとまりません(苦笑
14年間のラストダンス=高橋選手に感謝-長光コーチ〔五輪・フィギュア〕
http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2014021500316
【ソチ時事】フィギュアスケート男子の高橋大輔選手(27)=関大大学院=の集大成の舞台は6位に終わった。14年間、二人三脚で歩んできた長光歌子コーチ(62)にとっても、ラストダンスとなった。
2人が出会ったのは、高橋選手が中学2年の夏。指導者が集まる合宿が行われていた仙台市のリンクだった。14歳の少年を初めて見た時の衝撃を、長光コーチは忘れない。「体の中から曲が聞こえる」
高橋選手は岡山からプログラム作りのために来ていたが、予定していた振付師が急用で帰り、長光コーチに代役が回った。それがきっかけで、指導を引き受け、高橋選手が高校に入ると、兵庫県尼崎市の自宅に下宿させ、世界を目指した。
長光コーチは20歳の時に札幌五輪を観戦し、指導者になって「男子を踊らせたい」と思った。高橋選手に夢を託し、バンクーバー五輪で銅メダルを獲得した。
指導者であると同時に、最大のファンであるが故に、断腸の思いで発した言葉がある。
集大成と位置付けた今季の初戦、昨年10月のスケートアメリカ。惨敗した高橋選手が「今季で多くの選手がやめてしまう。次のスケート界のために、自分は続けた方がいいのかな」と漏らすのを聞いた。決意が揺らいではならないと「自分で退路を断って臨むべきじゃないの」と突き放した。
長光コーチは「そう言った私自身、つらかった。本当はもっと大輔を見たいのだし」。コーチの言葉に高橋の目の色は変わり、NHK杯優勝。だが、さらに練習で追い込んだ11月末、右膝下を故障。ソチのフィナーレに、最高の状態で臨めず、悔いは残った。
14日の演技後、長光コーチは感謝の言葉を贈った。「私はあなたのスケートが好き」。高橋選手はうなずいた。(2014/02/15-20:58)
私はあなたのスケートが好き。
好き、
という言葉で、
感動したのはいつ以来?
とりとめのない記事集め、しばらく続けます。
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