おはようございます。
朝なので、サクサクと記事の紹介だけします。
振り付け師宮本賢二先生の特集が大阪日日新聞で始まりました。
計3回だそうです。
作品数先シーズン50以上 宮本賢二
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/skate/120612/20120612027.html
フィギュアスケートは現在、シーズンオフ。しかし今の時期だからこそ、引く手あまたの人物がいる。振付師の宮本賢二がその人。彼のプログラムはどのようにして作られ、どのようにして選手に覚え込ませるのか。そして、どんな思いが込められているのか。今回は振付師という職業に注目し、3回に分けて連載する。(ライター 黒尾順子)
5月22日。岡山市の国際スケートリンクで田中刑事は新しいショートプログラム(SP)「AFRO FREAK」の振り付けのためリンクに立った。ポータブルのCDデッキをさっそうと持ち、田中のそばに立つのが宮本賢二、33歳。日本を代表する振付師である。
フィギュアスケートの振付師(Choreographer)とは、プログラムを構成する主な動きを音楽に合わせて組み立てる人、芝居でいえば脚本家に当たる。
シーズンオフのこの時期、フィギュアスケーターは新シーズンに向けて新たなプログラムを用意する。ショート、フリー、エキシビションと三つのプログラムを全て用意する選手も少なくないこと、その準備期間が重なることから、必然的に宮本は日本各地を駆け回り、少しのいとまもない。「作品の数は先シーズンで50以上、一つのプログラムは基本3日で作ります」。これだけ聞いてもその多忙ぶりに驚かされる。
宮本の名前を一躍有名にしたのは、バンクーバーオリンピックで高橋大輔が銅メダルを獲得したときのSP「eye」を振り付けたこと。「すごく感激したけれど、自分の意識の変化や依頼の数が特に増えたということもない。取材が少し多くなったくらいかな」とひけらかすところもない。
フィギュアスケートを始めたのは10歳のとき。「当時、サッカー、野球、スケートをやっていたが、スケートが一番褒められたので続けました。アイスダンスに転向したきっかけは樋口豊先生に勧められたから。スケーターのなかでは背が高い方だったので、アイスダンスに向いていた」
当初はシングルも並行して滑っていたが、1995年からアイスダンスに専念。「選手時代の思い出は95年に全日本ジュニアで優勝したこと。樋口先生が感動して泣いてくださったのが印象に残っている。それとやっぱり、長野の世界選手権かな」。数々の栄冠を手にして、競技生活を退いたのが2006年だった。
それから振付師を目指した。「高校のときにアメリカ、その後フランスに居て、周囲に『振付師』が多い環境だった。その働く姿を見ているうちにやってみたいと心をかきたてられた。振り付けを得意としていた樋口先生の影響もある」と当時を振り返る。「プロスケーターやほかの道はいっさい考えませんでした」
才能に導かれ、己の信じる道をまっすぐに進んだ。それからの宮本はその多くの作品でフィギュアスケート界に欠くことのできない大役を担うことになる。
ちょっとだけ。
この記事の冒頭の日付。
5月22日。岡山市の国際スケートリンクで(後略)
大ちゃんの「帰岡」の記事が5月24日(木)でした。
賢二先生、大ちゃんの振り付けだけじゃないよね、と思っていました。
やっぱり、刑事くんの振り付けもしていたんですね。
林先生は、一緒だったのかしら?
それとも、賢二と刑事でガチにしていたのかな?