昔は写譜の職人さんが、作曲家の手書きの楽譜を清書していたから、時々、写し間違いというものも生じました。

というわけで、作曲家の自筆稿を見直すことから始まる、オペラの基本的な検証作業というものが一冊にまとまったのが「批判校訂版 クリティカル・エディション」という楽譜です。

オペラの現場から言うと、この批判校訂版とは、研究者たちの労力の結晶であり、あれば必ず参照しないといけないものなのです。

一方、そうした労力の結晶であるからこそ、クリティカル・エディションの楽譜を実演で使うとなると、出版社側のスコア・レンタル料が相当に高くなります。だから、使いたくても使いづらいという興行主もいます。

ところで、解説する側にとっては、クリティカル・エディションの楽譜があれば(できればフルスコア、手に入らなければヴォーカル・スコアでも)、普通はそれで事足りるのです。ただし、《ホフマン物語》のように誕生譚が複雑で、資料がいまだに新発見されるような演目だと、クリティカル・エディションが将来的に成立するのかどうかすら疑問ですから、解説の際には、現時点で世に出ている楽譜各種を照らし合わせることがどうしても必要になってくる。でも、そういう特殊な作品でなければ、クリティカル・エディションが出ていればそれをまず参照して、それでOKということが通常。例えば《椿姫》や《リゴレット》、《夢遊病の女》や《シャムニーのリンダ》など。

しかしながら、以前、ロッシーニの超大作《ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)》のCD解説依頼がやってきたとき、なんと、そのCDに収められた演奏には、クリティカル・エディションの楽譜に出ていないパッセージが入っていたのでした。

「そんなことあるか?」と思いながら、恐る恐る、所蔵している昔の楽譜(19世紀に印刷されたもの)を参照すると、ものの見事にそのパッセージが入っていた・・・なので、「AABBCC社の楽譜に由来のパッセージが、このシーンで、部分的に挿入された演奏になっている」という一行を、解説に入れることができたのでした。

こういう経験を一度でもすると、楽譜は絶対に処分出来なくなる。全く同じものを2冊有していても、それでも自分で持っておかねばならない。いつ必要になるかわからないから。

そして、後世のために、火事や水難等は何が何でも免れねばならない。そんなことになるぐらいなら、冗談でも大げさでもなく、自分が死んだ方がまし。自分の代わりはいくらでも居るだろうけれど、楽譜の代わりはないから。