津山温泉は、以上のようにしてようやく骨子が出来上がると、旅館は旅館同士で無謀の競争を避けるために協定価格を決めたり、温泉地の評判を悪くしないために風紀紊乱の阻止策を樹てたり、効果的な共同宣伝を検討したりする必要に迫られて来た。前途のように津山温泉組合はあるが、幹部は町村長や地主等で占められ、津山温泉定住者組合もまた各種業種の集まりで部落会的性格のものであるから、腹を割ってじっくり相談する機関ではなかった。そこで大正11年11月津山温泉宿屋組合を結成した。組合員は高橋惣右衛門、工藤幸四郎、白田亀吉、山口源作、山口勇助、鈴木富蔵、工藤幸七、森谷長次郎、阿部金七、押野吉治、原田せつ、片桐忠太郎、山口五次右エ門の13名で山口甚作、武田松之助が後で加入している。取締1名、副取締1名、会計1名の役員が選ばれ、相互の団結によって津山温泉の繁栄を築こうという全く自主的な組合であった。又、この組合は毎月50銭宛貯金することを義務づけたり、津山温泉の名称を天童温泉と変更(大正13年6月7日)したり、雇人改善に関する規約を制定したり仲々意欲的に活動した。

雇人改善に関する規約
$天童温泉 今昔物語

 署名人 山口五次右エ門、渋谷きぬ、高谷長松、押野吉治、阿部金七、原田せつ、松田みよの、森谷きの、鈴木藤一郎、工藤たか、山口勇助、山口いつ、白田こと、工藤ゆん、高橋惣右衛門、武田とわきつ、山口みえ。


 上の雇人規約は簡にして要を得て居る計りでなく、各条文がよく守られて実行された。殊に煩瑣な届出の義務等忠実に励行されたし、上山、飯坂等に慰安旅行したり、講習会の開催、優良雇人の表彰等旅館経営が非常に近代化していった。

 上の署名人の中に居る新組合員を紹介すると、高谷長松は今のホテル王将付近にあった料理店「富久本」の経営者で、昭和5年頃東京に移住した。その子太郎氏は現在(昭和40年代)東京都三鷹市の市会議員として活躍している。



~次号につづく~




開湯当時の日本は国民生活が非常に苦しく、毎年のように減税を叫ぶデモやストライキが起こり、政情不安で政府が頭をいたくしていた。そこに大正3年欧州戦争が突発した。時の大隈内閣はこれこそ「大正新政への天佑」であるとばかりに喜んで、日本は強引に戦の仲間入りをした。そして東洋の独軍留守部隊をあっさりやっつけて発言権だけは列強国並に獲得した。その上連合国から、軍需品の注文が殺到し、更に交戦国から商品を断たれた東南アジアやアフリカに対する輸出も、ものすごい勢いで伸びたので空前の大好況となった。

 儲け頭は船と鉄と貿易商であったが、田舎の金物屋でも鉄の値上りでごっそり儲けた話や、山林所有者が大儲けして肩で風を切って歩く姿などは決してめずらしいものではなかった。重要農産物の繭と米の値上りもものすごく、繭の値段は4倍半にはね上がったし、米にしても同様で大正7年の例をとれば1月に1升30銭以下だったものが、6月には35銭、7月には40銭、8月には50銭でも買えないといった値上りぶりだった。

 将棋で「歩」が敵陣にはいると「金に成る」という。この間までは食うや食わずでいた男が、チョビ髭に金の指輪、首にはネッカチーフを巻き、べらぼうに金離れのよい上客となって現われ旅館を驚かせたものだった。こんなのは小型の「成り金」だろうが、日本中俄か成り金でいっぱいだった。
 バラックで開店した津山温泉も成金ブームで、本格的建築の設備拡充に踏みきることが出来た。大正13年の各旅館の客室状況は表のとおりで、旅館数は13軒で客室合計113室、畳数にして839畳であった。




開湯当時の旅館
$天童温泉 今昔物語-大正13年の旅館









 前述の定住者組合と前後して、8月28日津山温泉組合が設立された。津山村長山口千代吉を温泉組合長に推載し44年9月15日付知事に認可申請して同月22日に認可されている。まことにスピーディで気持ちがよい。

 前者の鉱泉地区取締規則では、区域を津山村の山地除きの全域とし、その地域内に20尺以上の掘削せんとする者は知事の許可をとるよう義務づけ、既設温泉に影響ある場合や無許可の掘削には警察署長を通じて現状復帰を命ずること等を規定している。

 後者の温泉組合規約は、組合構成メンバーを温泉所有者、浴場開設者の外に地主と地域内の定住者全員としている。組合長には津山村長か助役、副組合長には天童町長か助役、監事は津山と天童から各一名宛とした。又、評議員は津山と天童の地主から各3名宛その他の村から2名と温泉地区の定住者から2名合計10名選出することに規定した。源泉や浴場の変動、新規営業等は一切組合の承認を要し、防火及び衛生設備、道路沿いの建造物の新築や街路灯等を含む風致体裁に関する施設については組合と連絡をとって為すことを義務づけた。そして風紀紊乱で悪評を買わぬよう戒め、これ等に違反した者には拾円以下の違約金をとることにした。

 以上のように鎌田温泉の基盤整備は、着々とスムーズに行われ、然もわずか1カ年間にこれだけスピーディに行われたのは感服のいたりである。ここに我々の先輩の鮮やかな手腕を見ることが出来るのである。

 それにしても全くの短時日に、これだけの人々が各地から集まって来て定住するようになったのは、それだけの魅力があったからの事であろう。農業以外に格別の産業もなかった当時にしてみれば、将来大きな希望と夢を達せられるであろうところの憧れの天地と映じたに相違ない。そうして事業意欲に燃え、一旗あげてくれようと意気込んでの移住希望者が陸続と表れる気運だったのであるまいか。そこで開湯者や開拓者たちは、自分達の先取権を保持する上からも、寄集まりの集団を統制づける上からも速急に対策を講ずる必要があったのだろう。それでこのように早く諸規約が制定されたり、自主的に戸主会温泉組合を結成したりして基盤整備が完成したのであろうと思われる。何れにしても開湯の喜びと、当時近郷からの客の賑わいは今も語り草になっている程で、その頃、鶴の湯、金の湯を唄った次のドンドン節などにも、土臭い素朴な喜びがあふれている。


 見たか聞いたか  鎌田の温泉
 字は長道   田ん圃のなか
 どんこん水が  湯になりて
 にわか普請は  つるかねの湯
 誰が言うたか  湯のききめ
 四百四病の   その他に
 惚れた病も   みな癒る

 
天童温泉 今昔物語-開湯当時の旅館



 前表の如く温泉の湧き出たのは、鎌田に5カ所、塚田に2カ所、長道に6ヶ所、天童町分に1カ所の14カ所であるが、高温のものは鎌田地区に集中し且つもっとも早く湧出したので、鎌田温泉と称された。対外的には村名をとって津山温泉と公称された。田圃に穴を掘った板囲いの野天風呂が野良帰りの農民に天国の喜びを与えた。そして早天の苦悩も一挙に吹きとんだ事を祝福し合った。

 鎌田原に温泉が湧き出たことは、忽ち県下に広まり近在近郷からわッと人々が集まった。掘立小舎の浴室が出来、3つ4つの客室も急造されて湯治旅館がポツンポツンと建てられた。浴場前に店開きした露店も、何時の間にやら俄か造りの店舗を張るようになるには時間がかからなかった。開湯4ヶ月目にすでに32軒の世帯が定住するようになっていた。全くあっという間である。

 これ等の人々は津山温泉定住者組合を作り、鈴木富蔵を正取締、高橋惣右エ門を副取締に選び、山口源作、竹内子之吉、塩野雷治を幹事に任命した。そして温泉地区内で新たに営業せんとする者は組合の承認を受くべしとして営業権の確立を計った。又、協同一致して、猥りに競争したり、協定を破ったり、数種の事業の業態を兼業したりしない事、又、他から来て行商する者からはリベートをとる事、組合員の体面を汚すような事をしない事等仲々厳しい規約をも制定した。

 尚当時の定住者は下記の通りで、天童温泉開湯の金字塔を建てた人々である。


$天童温泉 今昔物語


 尚津山温泉定住者組合は大正2年11月2日役員改選し、取締は正副共留任、幹事に押野吉治、阿部金七、山口源作、会計に森谷長次郎を選出している。





~次回に続く~







 天童温泉の地域は津山村大字山元の鎌田、塚田、寺田、長道、六百刈とよばれる五つの文字で、田が二十一町歩、畑が一町歩あり、地主62名の所有地だった。地主は天童9、山口7、干布2、津山四41、その他3となっていた。

 この五つの字を北方から抱きかかえるように倉津川流れているのだが、河底が深く且つ上流で堰止めて田用水に使うため、僅かな水量しか利用出来ない。それで早天の時はいつも水喧嘩が始まるような水利の悪い地域だったのである。明治17年も早天続きで途方に暮れていた農民の中に、井戸を掘った者が居た。然し地層が砂利層薄く粘度盤計り厚くて、とても充分の水を得ることが出来なかった。19年もまた春から夏にかけて降雨少なく早害の様相が深かったので、あづま荘の先々代高橋惣右エ門が一段と深く掘抜井を掘った所20度を越す温水が出た。然しこれとても充分な水量ではなかった。

 その後も方々で井戸が掘られて僅か拾余町歩の地域に二十余ヶ所の掘削井が出来たという。

 これらの井戸は深さが大抵30メートル前後だったが、今の弥生館の所に掘ったのは42メートルあって、温度も38度あったという。鈴木富蔵がこれい目をつけ、斃獣埋没所の土地を払下げて、そこに引湯し鉱泉浴場を設けた。これが明治41年7月のことで、元湯と称して営業を始めたのだが、加熱しないと入れないのでうまく行かなかった。

 もっと深く掘ればきっと熱い温泉が湧くだろうとは一般の推測だったが、掘削技術が幼稚なことと金がかかることで試みる者も出ないままに数年は過ぎた。ところが明治43年突如東根の田ん圃に温泉が湧き出た。何でこれを見過ごそうや。機は既に熟していたのである。我も我もと視察調査に乗り込んだものと思われる。そして掘削技術を研究し技術者の獲得に懸命になって、翌44年、地主は自分の持ち田に、土地を持たない人は借地して一斉に掘削を開始したのである。

 そして結果は次の表りで、タッチの差で山口勇助の掘った藤の湯が天童温泉の第一号となった。明治44年4月8日(新暦5月8日)で薬師如来の御縁日に当たりこんな目出度いことはないと雀躍して喜んだのである。

 又、5月8日は山形市の大火で県庁を初め裁判所、市役所、山形中学、薬師堂等1,316戸焼失した。更に20日後の5月29日には稲荷湯、5月末には元湯、6月には亀の湯と朝日湯、何れも字鎌田で極近間に寄集まって次々と熱泉が大噴出したのである。又、字長道にも6月中旬小関館(緑湯)、8月松の湯と鶴の湯が湧き出た。これ等は字鎌田に湧き出たものより何れも数度温度が低かった。

 翌45年には、字塚田に東湯、字長道に滝の湯(若の湯)と新庄館(金の湯)が湧出した。以上深度は何れも7、80メートルあった。外に二見屋、東松館、桐屋が掘削したが余り高温のものは得られなかった。この外に失敗して放棄したものもあって、全部で1ヵ年に26本の源泉が掘削されたのである。

 こうして思いもかけず鎌田の田から宝を発見したのである。


「目出たく田から宝物が出た」 故菅野圭文作 明治四十四年四月二十九日 温泉発見
$天童温泉 今昔物語-菅野圭文作

 古代の天童は、「出羽の三ツ森」から始まる。出羽の三ツ森とは天童市のほぼ中央にポツンポツンと点在する舞鶴山、八幡山、越王山の事である。

 越王山は長龍寺とも呼ばれ頂上にに越王神が祀られ、この辺は越族が生活していた所ではないかと云われている。素盞男命(スサノオノミコト)が鳥上山の足名槌(アシナヅチ)・手名槌(テナヅチ)の姫を略奪に来た八岐の大蛇(オロチ)を退治して天のむら雲の劔を得、これを天照大神に献上したのが後世の三種の神器になったことは古事記の所伝であるがこの大蛇はオロヂオロン民族の事で、出雲地方から新潟県に亘って定着した越の国を形成した大陸地方民族オロッコ族、即ち越族だというのが定説になっている。山形県、秋田県及至は岩手県迄その居住を証明される史実が沢山残っている。越族はまた祖先崇拝の念強くその氏神たる越族は必ず北方に向けて祀ってある事や、舞鶴山の金山の石で造ったと思われる石鏃(やじり)が沢山発見された事で証明され先づ間違いあるまいと考えられている。

 この外、糠塚の東方山形バイパスの傍らに光戒壇と呼ばれる所があるが、ここから先住民の竪穴式住居遺跡が道路工事で発見された。

 以上が天童の歴史のスタートだとすれば、二番手は鈴立山若松寺の寺伝であろう。この寺伝によると和銅元年行基菩薩が、最上川を遡って来ると東方に紫雲たなびく山のあたりから鈴の音が聞こえて来た。これは霊場があるのに相違ないと山に分け入ってみると、そこが今の若松だったという。早速身を浄め一刀三礼観音像を刻んで秘伝とし観音堂を建てたのだとされている。行基は百済系の帰化人で668年に生まれ749年82歳で亡くなったが、菩薩と仰がれた程の傑僧で、生涯に四九の寺院を建てたと伝われ、有名な東大寺大仏は彼の最後の大事業だった。彼はいかにも帰化人らしい科学的なセンスを土木工事に発揮すると共に、民衆心理の名キャッチャーで全国に普く足跡を遺して厚く信仰された。出羽千手堂や慈恩寺も同じ頃行基が開いたとされているが、何れも裏付け史料があるわけではない。何せ慈覚大師が山寺を開いたという貞観二年の153年も前のことだから。

 やや史実的に史料も整って来るのは、舞鶴山にキヨを奏して舞をまいながら二人の天の童が降りたったという菊慈童物語からである。これは北畠親房の孫天童丸の事だろうとされている。天童丸は舞楽の名手だったが飄然とわが郷土に現れて、今の愛宕山に居場を構えた。部下に荒屋地区を開墾させて住まわせたり、山寺に出入りしたりしていたが、土地の人々からは非常に親われたらしい。日一日と傾いていく後醍醐天皇の南朝勢力を挽回するために、山家氏や寒河江の大江氏、山寺立石寺別当等と力を合せて一旗挙げる努力をした。山家氏は印役山家に居住した豪族で、若松山家に支塞があって津山村はその支配下に置かれていた。山元沼の山はその城跡だという。名字に殿前(とのまえ)、的場(まとば)、寄際(よせぎわ)等残っているのはその名残であろう。

 一方成生の庄には里見頼直が居た。頼直は北朝方の按察使斯波兼頼の孫で、兼頼が成生の庄の豊穣な熟田を手に入れるため、里見義宗に子がいないのを幸い1369年に頼直を養子に入れたのである。成生の庄というのはほぼ今の天童市の範囲で、平安時代中納言藤原兼家の荘園であった。一時後宇多天皇の御領にもなったことのある程中央政府にも知られた豊穣な土地だったので、ここを支配下におくことは非常に重要なことだったわけだ。大体斯波兼頼は温厚な人で争いを好まず、寺院建立などばかりしているので、足利尊氏が心配して時折部下を見によこした所を見ると、戦争ぎらいで万事話し合いで行くタイプの優れた政治家であったらしい。

 従って狭い村山盆地に南朝方北朝方入り乱れてにらみ合っていても戦争にはならなかった。然し北朝方の隠然たる底力に南朝方も歯が立たず、少しも勢力を拡張出来なかったので、天童丸は北畠宗家の浪岡御所(青森県)に去ってしまった。そしてその跡に1375年に里見頼直が成生から移り住むようになったのだという。

 天童はそれまで「来たれの里」といわれた僻村であったが、頼直が天童城主となるに及んで栄えた。そして1584年十代天童頼澄が最上義光に滅ぼされ天童が落城するまでの210年間、天童の支配者となるのである。

 出羽の三ツ森の中央の山は八幡山と呼ばれて来た。麓に八幡神社があるからだろうが、これは頼直の子天童備後(頼泰)が源氏の守り神八幡様を祀ったのに始まる。古い天童の町は今の北目から舞鶴山と八幡山の間に合った聚落で、山形ー十文字ー天童ー一本杉ー栄屋ー紅葉苑ー寄際ー糠塚のうねくねった道が当時のメイン・ストリートで横街道と伝われた。(今の国道は佐竹街道と伝われ徳川初期(1605年)に秋田佐竹藩が参勤交代のためにつくったのである。)この横街道をはさんで西の愛宕山に本城をおき、東の八幡山に支城をおいて敵襲に備えたのである。

 以上のように今旅館の窓から眺める舞鶴山、八幡山、越王山の出羽の三ツ森を始め、湯上山や若松の山々は、四季おりおりに趣きを変えて情緒を添えてくれる天童の宝の山であるが、同時に天童の誕生を物語る歴史の宝庫でもあるのである。







昭和初期の出羽の三森(右から舞鶴山、八幡山、越王山)
舞鶴山の右側に天童温泉(鎌田温泉)の旅館が点在しています
$天童温泉 今昔物語-天童温泉(昭和初期) border=

 昔此の地方を温泉郷と読んだ事もあるし、又、湯上山(温泉東方の富士山のような山、海抜450メートル)湯尻(湯上山の麓の田圃の字名)貫津(温(ぬく)津で温い湯の湧く所の意だと云う。)等の地名があって、如何にも温泉の気配を感じさせるのである。

 事実、又、この湯上山の麓に鼻毛の湯や関の湯があって、井戸を掘って微温湯を得これに加熱して茶屋兼湯屋を営んでいた。殊に面白いのは関の上の伝説で、凡そ千年前弘法大師が山寺と若松観音とを巡錫の途中にここを通られた。すると沢山の農民が仕事をサボってこんこんと湧きでる出湯に浸りながら騒いでいるのをご覧になった。これではいかんというので法力で出湯を堰き止めてしまった。それで「堰止めの湯」となったのだと古老が話してくれた。

 「弘法の湯」は全国処々にあるが、折角出ている湯を堰き止めたというケースは珍しい。然しこの法力も明治44年で有効期限が切れたのであろうか、熱湯が馬をも流す勢いで大噴出して、天童温泉の開幕となったのである。




湯上山(中央 三角の山)滝の湯本館屋上から撮影 2010年2月14日
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 開湯当初の天童温泉は、一面田圃であたが、まだ処々に開田で石を集めた塚や、未開墾の原野があって、殊に鎌田には死獣の埋没所があったり、寺田からは、埋葬した人骨が掘り起こされたりする荒涼としたところものこっていた。又、舞鶴山の登山口には火葬場があって、夜な夜なあやしげな狐火が連なって点滅しながら山麓を飛びかっていた。

 この頃天童の町からあづま荘までは、二メートル程の道路があったが、その先は昔横街道といわれたうねくねった道路に連なっていた。この道路も今の道筋とはだいぶちがっていて、いろは食堂で折れ曲がって滝の湯駐車場の北側を通り、いすず食堂前から天童荘の北裏で丁字路になって、富士の湯前で今の道路に合するものと、北に進んで倉津川を二つ割にした丸太橋で渡って若松に行く道とに分かれていた。そして小路町から関の上部落までは一軒の家もない一面田ん圃だった。

 従って、開湯当時は一晩中枕元で蛙が鳴きどうしで、今の人ならとても寝つかれない夕立のような賑やかさだった。高浜虚子先生が新庄館に泊まって詠んだ「天童の出湯でひき鳴く夜もすがら」の句は昭和に入ってからの作だが、田圃温泉天童の情緒をよく伝えている。

 この田ん圃に明治四十四年温泉が湧くと、一年もたたない間に今の旅館十七軒のうち早くも十四軒が浴場業宿屋業飲食店等開業して今の基盤が出来たのである。といっても東はあづま荘から西は滝の湯までの広い地域に、掘建小屋がバラック建築がポツンポツンと建てられたお粗末なものではあったが、これが鎌田温泉の発祥でもある。

 この鎌田温泉が、たった六十年で縦横に道路が拓かれ、旅館や商店の高層建築が櫛の歯のように建ち並び、地上には自動車がひしめき、上空には定期航空が銀翼をひらめかしている今日の姿を、当時誰もが想像し得ただろうか。たった六十年で車がこの変わりようである。開湯百年の頃はどんな天童温泉になるやら、御同様我等にも想像つかない。

 然しこの大発展も子細に検討してみると、自ら因果律があって、決して偶然ではない事に気がつくのである。この土地の自然的条件を我等の先輩は協力して賢明に活用した。和の勝利といえそうである。素人の悲しき誤りも少なくないと思われるが、以下先人の業蹟を追うて天童温泉の今昔をのぞいて見たいと思う。




私は天童温泉某旅館の宿六です。

来年2011年が天童温泉開湯100年の記念の年となります。
これから様々な記念事業を繰り広げていく予定となっておりますが、
私個人で今から出来る事を地道にやっていこうと思い、このブログを始めます。

私の祖父が今から40数年前に書いた「天童温泉夜話」をもとに、
天童温泉の生い立ちから現在までを綴っていきたいと思います。

途中で、誤った記載などもあるかと存じますので、
是非ご指導をご鞭撻の程よろしくお願いいたします。


それでは、最後までがんばります。
(終了予定は2012年です)

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