古代の天童は、「出羽の三ツ森」から始まる。出羽の三ツ森とは天童市のほぼ中央にポツンポツンと点在する舞鶴山、八幡山、越王山の事である。

 越王山は長龍寺とも呼ばれ頂上にに越王神が祀られ、この辺は越族が生活していた所ではないかと云われている。素盞男命(スサノオノミコト)が鳥上山の足名槌(アシナヅチ)・手名槌(テナヅチ)の姫を略奪に来た八岐の大蛇(オロチ)を退治して天のむら雲の劔を得、これを天照大神に献上したのが後世の三種の神器になったことは古事記の所伝であるがこの大蛇はオロヂオロン民族の事で、出雲地方から新潟県に亘って定着した越の国を形成した大陸地方民族オロッコ族、即ち越族だというのが定説になっている。山形県、秋田県及至は岩手県迄その居住を証明される史実が沢山残っている。越族はまた祖先崇拝の念強くその氏神たる越族は必ず北方に向けて祀ってある事や、舞鶴山の金山の石で造ったと思われる石鏃(やじり)が沢山発見された事で証明され先づ間違いあるまいと考えられている。

 この外、糠塚の東方山形バイパスの傍らに光戒壇と呼ばれる所があるが、ここから先住民の竪穴式住居遺跡が道路工事で発見された。

 以上が天童の歴史のスタートだとすれば、二番手は鈴立山若松寺の寺伝であろう。この寺伝によると和銅元年行基菩薩が、最上川を遡って来ると東方に紫雲たなびく山のあたりから鈴の音が聞こえて来た。これは霊場があるのに相違ないと山に分け入ってみると、そこが今の若松だったという。早速身を浄め一刀三礼観音像を刻んで秘伝とし観音堂を建てたのだとされている。行基は百済系の帰化人で668年に生まれ749年82歳で亡くなったが、菩薩と仰がれた程の傑僧で、生涯に四九の寺院を建てたと伝われ、有名な東大寺大仏は彼の最後の大事業だった。彼はいかにも帰化人らしい科学的なセンスを土木工事に発揮すると共に、民衆心理の名キャッチャーで全国に普く足跡を遺して厚く信仰された。出羽千手堂や慈恩寺も同じ頃行基が開いたとされているが、何れも裏付け史料があるわけではない。何せ慈覚大師が山寺を開いたという貞観二年の153年も前のことだから。

 やや史実的に史料も整って来るのは、舞鶴山にキヨを奏して舞をまいながら二人の天の童が降りたったという菊慈童物語からである。これは北畠親房の孫天童丸の事だろうとされている。天童丸は舞楽の名手だったが飄然とわが郷土に現れて、今の愛宕山に居場を構えた。部下に荒屋地区を開墾させて住まわせたり、山寺に出入りしたりしていたが、土地の人々からは非常に親われたらしい。日一日と傾いていく後醍醐天皇の南朝勢力を挽回するために、山家氏や寒河江の大江氏、山寺立石寺別当等と力を合せて一旗挙げる努力をした。山家氏は印役山家に居住した豪族で、若松山家に支塞があって津山村はその支配下に置かれていた。山元沼の山はその城跡だという。名字に殿前(とのまえ)、的場(まとば)、寄際(よせぎわ)等残っているのはその名残であろう。

 一方成生の庄には里見頼直が居た。頼直は北朝方の按察使斯波兼頼の孫で、兼頼が成生の庄の豊穣な熟田を手に入れるため、里見義宗に子がいないのを幸い1369年に頼直を養子に入れたのである。成生の庄というのはほぼ今の天童市の範囲で、平安時代中納言藤原兼家の荘園であった。一時後宇多天皇の御領にもなったことのある程中央政府にも知られた豊穣な土地だったので、ここを支配下におくことは非常に重要なことだったわけだ。大体斯波兼頼は温厚な人で争いを好まず、寺院建立などばかりしているので、足利尊氏が心配して時折部下を見によこした所を見ると、戦争ぎらいで万事話し合いで行くタイプの優れた政治家であったらしい。

 従って狭い村山盆地に南朝方北朝方入り乱れてにらみ合っていても戦争にはならなかった。然し北朝方の隠然たる底力に南朝方も歯が立たず、少しも勢力を拡張出来なかったので、天童丸は北畠宗家の浪岡御所(青森県)に去ってしまった。そしてその跡に1375年に里見頼直が成生から移り住むようになったのだという。

 天童はそれまで「来たれの里」といわれた僻村であったが、頼直が天童城主となるに及んで栄えた。そして1584年十代天童頼澄が最上義光に滅ぼされ天童が落城するまでの210年間、天童の支配者となるのである。

 出羽の三ツ森の中央の山は八幡山と呼ばれて来た。麓に八幡神社があるからだろうが、これは頼直の子天童備後(頼泰)が源氏の守り神八幡様を祀ったのに始まる。古い天童の町は今の北目から舞鶴山と八幡山の間に合った聚落で、山形ー十文字ー天童ー一本杉ー栄屋ー紅葉苑ー寄際ー糠塚のうねくねった道が当時のメイン・ストリートで横街道と伝われた。(今の国道は佐竹街道と伝われ徳川初期(1605年)に秋田佐竹藩が参勤交代のためにつくったのである。)この横街道をはさんで西の愛宕山に本城をおき、東の八幡山に支城をおいて敵襲に備えたのである。

 以上のように今旅館の窓から眺める舞鶴山、八幡山、越王山の出羽の三ツ森を始め、湯上山や若松の山々は、四季おりおりに趣きを変えて情緒を添えてくれる天童の宝の山であるが、同時に天童の誕生を物語る歴史の宝庫でもあるのである。







昭和初期の出羽の三森(右から舞鶴山、八幡山、越王山)
舞鶴山の右側に天童温泉(鎌田温泉)の旅館が点在しています
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