握手してどくだみの香を移したる
磁石へと砂鉄飛び付く暑さかな
ビアガーデン飛ばされさうなピザの来る
風鈴や胃に広がりし胃の薬
洗面器の底に西瓜の種ひとつ
流れゆく雲の形に松手入
風邪ひきが幾度も通る廊下かな
薇の開く背骨を鳴らしつつ
空ばかり見て時の日の父と母
視力検査の距離ほどにあり立葵
眼の動き似たる姉妹よ障子貼り
紅葉鮒雨の濃くなり薄くなり
有給休暇鴨の横顔流れゆく
人待てばくれなゐ揺らぐ寒の鯉
朧夜の笛の余熱をしまひけり


恋愛を詠んだ句も多いが、
いわゆる「なんでもない」句に惹かれた。

 流れゆく雲の形に松手入
 風邪ひきが幾度も通る廊下かな
 紅葉鮒雨の濃くなり薄くなり

しかし、この作者はもしかしたらすごくマニアックな人で、しかし、それをあえて押さえつけて俳句を「なんでもない」ようにしたてているのかもしれないとも思う。
それはおそらく取り合わせの意外性に現れていて、「ふんふん」と油断して読みすすめてきた読者を時折どきっとさせる。
その一端が覗けるのが例えば以下のような句群。

 磁石へと砂鉄飛び付く暑さかな
 風鈴や胃に広がりし胃の薬
 視力検査の距離ほどにあり立葵

磁石に砂鉄がくっつくというのは常識として知っていても、真夏にそれをやる(おそらくかんかん照りの砂場で)のは、相当ヘンだし、
「胃に広がりし胃の薬」というフレーズは、「こんなの当たり前ですよね」という顔をしているけれど、身体感覚というものを越えた、言葉の世界と現実の世界との微妙な断層みたいなものが、確実にそこにはある。
「視力検査」もタチアオイの丸い花をランドルト環に例えたといわれれば確かにそうなんだけれど、屋外でおもむろに片目を隠してタチアオイを見始めた人の姿が否応なしに想像させられて、やはりびっくりしてしまう。

 洗面器の底に西瓜の種ひとつ

作者自身は「日常」と作句信条に書いているけれど、普通の生活者が想像する「日常」が、その現実の生活における「日常」とときに大きく異なることを、この作者の俳句を読んだときに思わされる。

波寄せて詩歌の国や大旦
宝船赤子のままの神のかほ
破れたる国の薺を摘みにゆく
花吸うて真白きものを糞りにけり
花の庵こよひは霧の深からん
囀りは大きな金の輪となりぬ
その人にふつと咲きたる椿かな
飛んできて海にはりつく落花かな
眠たげな鹿の子を神は使はせし
病床の子規の眼に虚子青嵐
路地の奥朝顔の瀧かかりけり
凍鶴の恍惚と水含みけり
若冲の鶏が産みたる寒卵
雪踏んでまた狼を撃ちにくる
綿虫の谷響かせて電車来る
くるくるとまはる地球に冬ごもり


①大きな事柄を大きな器で捉える
②大きな事柄を小さな器で捉える
③小さな事柄を大きな器で捉える
④小さな事柄を小さな器で捉える
という選択肢があったとき、
作者が選んだのはおそらく③であった。

 破れたる国の薺を摘みにゆく
 眠たげな鹿の子を神は使はせし
 くるくるとまはる地球に冬ごもり


「薺を摘んだ」「鹿の子を見た」「冬ごもりしている」
以上の3つの日常の小さな事柄を受けるのに、作者はなんと大きな器を用いていることか。
それは俳句形式という投影機をめいいっぱいスクリーンから離したところ
事実が大きな像を成しているようなもので、
句の解像度の低さがより句のスケールを増しているように思える。

季語を殺すために季語を複数用いた初期の岸本尚毅の姿勢とは違い、
この作者は俳句を大きく響かせるために季語を複数用いている。

 花の庵こよひは霧の深からん

この句の季節はいったい春なのか秋なのか。
池田澄子に「生きるの大好き冬のはじめが春に似て」という句がある。
作者の上の句も同じように、花冷えの庵に居るとき、
「これは秋のような寒さだ」と一瞬錯覚し、
その錯覚を楽しみながら「今夜は霧も深いだろう」と冗談を言ったのではないか。
深読みかもしれないが、この句のお悠々とした口調に読んでいる僕も楽しくなった。
清明に生れてみどりの踵持つ
舌に山葵中国の同世代とか
清明に死してわたしと隣り合ふ
肩口よりどつと吹きだすミモザかな
小面をはづしかの世のころもがへ
泉からむらさきのひとるいるいと
やかなけりけり秋の夜の缶蹴り
かなしみに芯あるゆふべ鶴来るよ
両手からきつねこぼしてしまひけり
ひざうらのやはらかなこと梅咲いて
ひだりてのすみれまがつてここにきて
ぼろぼろの青嵐はろばろと来ぬ
ビビンバを食ふ遠景の冷し馬
釜揚げのしづく珊瑚の枯れる夏
くりかへし記憶にふれる鰍かな
光る首はねよはねよと秋桜
白和に柿を刻んでゐなくなる
濃いさくらうすいさくらを呼びわける
ふつさりと腕のべらるる春の昼
そしてみな芹の部屋にてまどろみぬ

キーワードで。
構成の妙。
 清明に生れてみどりの踵持つ
 清明に死してわたしと隣り合ふ
 そしてみな芹の部屋にてまどろみぬ

身体感覚の鋭さ。
 肩口よりどつと吹きだすミモザかな
 ひざうらのやはらかなこと梅咲いて
 ふつさりと腕のべらるる春の昼

調べの優雅。
 泉からむらさきのひとるいるいと
 やかなけりけり秋の夜の缶蹴り
 ぼろぼろの青嵐はろばろと来ぬ

対象の新しさ。
 舌に山葵中国の同世代とか
 ビビンバを食ふ遠景の冷し馬
 釜揚げのしづく珊瑚の枯れる夏

表現のはかなさ。
 小面をはづしかの世のころもがへ
 両手からきつねこぼしてしまひけり
 白和に柿を刻んでゐなくなる


巧拙はあれど、この作者は間違いなく「俳句」を書いていると、強く思う。

無人駅にころがるつぶれたランドセルの記憶
冬日のある部屋 亡き祖母にうつ伏す背ある
六月の蜃気楼 遠ざかる青シャツに心地よい右斜め後ろ
白壁のリビングに溶ける扇風機と愛撫のノイズキャンセラー
窓から魂乗り出し五月の空気を落ちる
結合の相性で決まるペンギンの飛距離
燈を消せば勢いづきて尽きぬ水瓶の底
夢食い案内人に箒もたされ毎夜の情事


この作者の作品に良い意味でも悪い意味でも存在する読みづらさは、
句の文脈にかろうじて乗りながらも文脈から少しずらされた過度に象徴性を孕む単語が句の中に含まれることに起因する。
具体例を挙げると、

 母の慈愛降り積もりて発狂す多摩川べり

は、「慈愛」を「愛」に、「多摩川」を「川」に落とし込んでしまえば、
「母の愛が降り積もって川べりで発狂する」という文脈があらわとなる。
川べりが「橋の下で拾われた子供」という忌子的な発想からきているとすると、
この句は思春期としてはごくありふれた感情が句に現れていることになる。

この象徴性と俳句形式が上手く調和した例としては、

 六月の蜃気楼 遠ざかる青シャツに心地よい右斜め後ろ
 結合の相性で決まるペンギンの飛距離
 燈を消せば勢いづきて尽きぬ水瓶の底

などがあり、
作者が立っている相対的な位置を表したであろう「右斜め後ろ」が句にすることで抽象的な響きを帯びて句に加速感を与えているし、
同じく作者自身を象徴するであろう「ペンギン」が即物的な存在として読めることで、ペンギンの情事とペンギンの高揚、さらにはペンギンの飛行という寓話的な世界へと読者を誘う。
「水瓶」の句もこれを写生句の中に並べておけば字余りの写生句とも読めるという面白さと破調の勢いが人体を「水瓶」に例えるという陳腐を上回っている。

もちろんこのように象徴性のある言葉が俳句となることで句としての説得力や魅力が生れることは否定しないが、
この作者の「ずらし」方はテクニックというよりも言葉の象徴/非象徴能力に対する極端な信頼感から生れているような気がした。
それが結果として、

 負けてこそ 倒れぬ起き上がり小法師
 マージャンの音に地団駄する幼児退行
 ゴルフバック片手にいそいそと早朝の中年オヤジ群

という、「既視感」のある句群を生んだ結果になったのではないだろうか。

おそらくこの作者の作品が真に面白くなるのは、
訓話性、象徴性を句に与えることによる「深さ」を読者の熟読と競い続けるのを止め、
言葉がもつ象徴性を自然に表現し始めてからではないかと想像する。

 冬日のある部屋 亡き祖母にうつ伏す背ある
若手俳人のブログの慣例に従い、
今後細々と若手のアンソロジーを読んでゆくことにする。
今回選んだのは2010年12月23日刊行の「超新撰21」。


感想の形式は、従来の記事と同じく100句の中から良いと思った句を選してゆき、
次に簡単な感想を書いてゆくことにする。

筆者の中には面識のある人もいればないひともいるので、
不公平がないように僕なりのある「読み方」をすることにした。

ここで、僕なりの「読み方」における自分ルールを提示しておくと、


俳句を論ずる上で参考にするのは「タイトル」「作句信条」「略歴」「前書き」「俳句」「詞書」(以下では「テクスト」と呼ぶ)のみとする(「近影写真」「作家小論」はここでは省く)。

「テクスト」の各々の構成するメタ的な構造に関しては考慮に入れることにする。

常識的な読者が「テクスト」から連想されるであろうと僕が判断した事柄に関してはテクスト上になくとも考慮に入れることにする。


とりあえず思いつくのは以上のような条項になるが、
今後改定されて増えてゆく可能性があることを付記しておく。

まあ、とりあえずそんな感じで楽しく読んでゆくことにしよう。