一応、自炊していることになっている。
一応というのは、「自炊してるの?」と聞かれたときに
「はい。一応・・・」と答えているからだが、

すみません。自炊、してないかもしれません。

基本的に夕食を外食することは少ない。
というか、1人のときはほぼ外食しない。
せいぜいが、スーパーで惣菜を買ってくる程度だ。

では、日々どんなものを食べているかというと、

・チルドの餃子
・やきそば(具は玉葱と何か肉っぽいものと卵)
・チャーハン(具は玉葱と何か肉っぽいものと卵)
・茹でるラーメン(2玉100円)
・納豆
etc

今日は、
熱々のご飯の上に
納豆と鰹節とわさびみそ(このまえ伊豆で買ってきた)と卵黄
を乗せて混ぜたもの。
まあ、大変おいしゅうございました。

これでは自炊してるとは、云えぬであろうなあ。
もしかしたらなんにでも俳句につなげられるのではないかと思い、
適当に書き始める。

本棚を綺麗にしておくのは大変な労力の要る作業である。
「誰にでもできる簡単なお仕事」では決してないのだ。
それは

①本は本棚にできるだけ隙間なく詰めておく
②本を並べる順番は出版社別、作者五十音順、ジャンル別など一定の法則に沿う

の2点が少なくとも守られなければならないことに拠る。

無論、本が増えなければ本棚の均衡は永久に保たれるわけであるが、
本とは必ず指数関数的に増えてゆくものなのである。
それは本が持っている引力ポテンシャルの極小点が通常の人の住範囲より狭いところにあるからだと推測しているが、
それを確かめるためにgoogle chromeでググっている間にも、
本は増え続ける。
ドラえもんにおけるバイバインをかけられた栗饅頭のごときである。

話が逸れた。
桶屋富裕化理論的に言うと、
本が増える→本棚の本を移動させないと本が入らない→面倒だ→本棚の隙間に横に積む→隙間がなくなって床に積む→床が狭くなる→歩く時にタワーを蹴る→崩れる→全てがいやになる

ということで、僕の超新撰21が散らばったHELLSING全10巻の下から現れることとなる。

で、俳句というのはそういうものだと思うんですね。

つまり、本来は言葉というのものはある文脈をもった流れの中で脳内に入り、
その人なりのジャンル分けされた引き出しの中に仕舞われるものだと思うんですよ。
そして、言葉を知れば知るほど頭に入る言葉は増えてゆき、
ついには言葉の本棚に入りきらずに脳内に言葉のタワーとして蓄積されることとなる。
しかし、「年始に実家から持って帰ってきた」という同時性を持った本のタワーが崩れたのちに、
ある脈絡でつながりつつも相互の関係が他者にはわからない言葉が選択され、
取り合わせとなって俳句に現れるわけです。
ここで僕が提言したいのは、取り合わせが「なんかいい」という場合には、
文脈とは異なる、しかし、ある近しさがそこにはある、と。
そして、その近しさの元となっているのはおそらく、
皆が近似的な体験を共有していて、なおかつその近しさが一端脳内で失われた場合にのみ、
「なんかいい」が現れるのではないか。
そしてその近似的な体験とはおそらく再帰的で、
「なんかいい」取り合わせの句(文脈があらわになっていない言葉同士の共存)を読んで行く内に、
ある「なんかいい」シナプス結合が脳内に形成され、
ある離れた(これも言外に文脈が想定されていますよね)言葉同士の繋がりが気持ちよくなっていく。
(つづくかも)

初御空みづのあふみの揺るぎなし
旧正の餅菓子を切る赤き糸
文字のなき絵本をひらく日永かな
あやめ咲く和紙の包みを解くやうに
緑陰へ運ばれてゆく銀の盆
めいめいにちがふ花野へ帰りゆく
ついてゆくだけの親しさ十三夜
辛崎の雪ふる松となりて立つ
はらはらと麒麟は青葉食べこぼし
白蚊帳のなかは真白き波の音
螢舟闇の真中を通り過ぎ
さくらんぼ食みてのち子の宿りけり
小鳥来るはじめて話すことばかり
涅槃図の吊しきれざる長さかな
子を追つて蟻の国まで来てしまふ
裸子が歌舞伎役者の名を云へり
這ふことはたのし赤子も芋虫も
子が持つて来て読初の書となりぬ
子の思ふこと囀りのなかにあり
燐火箱に巴里の夜があり春の燭


吾子俳句は基本的に苦手だ。
なぜなら、句の中心が子供を持った感動で終始し、
そこから出てゆかないように見えるからだ。
作者の俳句にその傾向が全くないとは言わない。
しかし、作者の俳句からはそこから抜け出ようという意思が感じられる。

 裸子が歌舞伎役者の名を云へり
 這ふことはたのし赤子も芋虫も
 子の思ふこと囀りのなかにあり


吾子について詠みながらも、一句目の諧謔味や二句目の命の持つグロテスクさを詠みこもうという姿勢、三句目の季語の世界に子供の世界が包摂されていく感じ。
作者は定まった俳句の世界に吾子の世界を嵌め込むのではなく、子供を触媒として自身の俳句の世界を広げようとしているようにみえる。

吾子俳句以外に作者の句で好きなものとして、

 あやめ咲く和紙の包みを解くやうに
 めいめいにちがふ花野へ帰りゆく
 白蚊帳のなかは真白き波の音

がある。
一句目。あやめの咲く様子を写生的に形容すると共に、あやめの咲いたときの喜びと和紙の包みを開いたときの「わっ」という喜びが響きあう。
二句目。おそらくは解散してそれぞれが家へと帰ってゆく情景において家を「花野」と詠み換えたのであろうが、作者の俳句の特徴である韻律のなめらかさによって幻想的な雰囲気の句に仕上がっている。
三句目。「上五中七」あるいは「中七下五」のつながりは既視感のあるものだが、それらが全てつながったときに重層感のある景ができあがる。ア音の響きが心地よい。

調べの確かさ、表現の確かさ。この作者が今後どのような内容の俳句を詠んで行くことになるかは分からないが、この二つが目の前にある以上、僕はこの作者を信じてゆく。
部屋が汚いのである。
別に未知の病原体がいるとかいうわけでは(たぶん)ないのだが、
とにかく散らかっている。
阿部サダヲにだーってギターを倒された状態の方がたぶん綺麗だ。
色味とかね。
とにかく写真を見せられないのが残念だ。
といいつつ別に残念ではない!

本棚もそういえば汚い。
最初は五十音順に並べていたのだが、
本が増えるにしたがって
端っこの本を下の段に、とか
やってるのが大変になって
結果として横向きに押し込んである。
ちなみに漫画はタワーとなって本棚の横と目の前にある。
よって漫画はわりと綺麗だ。
色味とかね。

机の上は無法地帯と化している。
就職活動関係の書類と大学の書類でいっぱいで、
グラスを乗せる隙間もないことは過去の僕によって実証済みなのだ。
だからやめておいたほうが良いよ、グラス乗せるのは。
色味はそんなによくない。白い。

白いといえば扇風機がまだ部屋にある。

空がこころの妻の口ぶえ花の昼
蒲公英のまわりの濡れている市場
風船のうちがわに江戸どしゃぶりの
翡翠の記録しんじつ詩のながさ
新緑や全国犀の角協会
隠さず申すうすばかげろう酒たばこ
蟻が蟻越え銀行が痩せてゆく
中空にひかる午睡の不思議な樹
釣堀のちいさな橋を渡りけり
爪切りにぐっとかたちのある薄暑
死も選べるだがトランプを切る裸
空豆の神話しずかなそらもよう
庭たのし末路ゆたかに扇風機
西日暮里から稲妻みえている健康
郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う
凍鶴や産業の火を持ちあるく
内側の見えぬ小学校に雪
鯨は眼がしみてその理由を知らず
晴れやみごとな狐にふれてきし祝日


すごくミニマムな言葉の世界に生きている人だという感じがした。
作者の好きな言葉のみしかこの作者の俳句には登場しない。
それはもしかしたら全ての俳人にある程度言えるのかもしれないけれど、
作者の言葉選びの刃は非常に鋭く、厳しいのだろう。
それら選別された言葉がこれまでにない形、韻律で組み合わされ、
ミニマムな作句の世界が広大な読句の世界へと膨らむ。

 風船のうちがわに江戸どしゃぶりの
 空豆の神話しずかなそらもよう
 晴れやみごとな狐にふれてきし祝日


天気に関する言葉の入った句を並べてみた。
これらの「天気」はそれら自身が句の景を押し広げ、同時に句語それぞれの持つ世界を象徴する。
それはつまり、作者の持つ言葉の世界と直接的に通じるかたちで句が構成されているということだ。
俳句は通常、作者にとっての何かの基準で「最適」な形に収まっているが、
この作者の俳句は作者の世界を読者に追体験させるのに「最適」な形で作り上げられている。

 新緑や全国犀の角協会

この「全国犀の角協会」は、現世に存在するとしてもしないとしても(存在しないことを僕は祈るが)、一年中新緑の中にあるし、また、そうでなくてはならない。

 郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う

作者は、この句の中の『郵便の白鳥』というフレーズは「葉書、封筒の白さを白鳥に例えたのだ」と思った読者を、また、「いや、白鳥が渡って来るという事実を郵便に例えたのだ」と思った読者を、『「は」の棚に仕舞う』というフレーズによって叱咤する。「どちらでもなく、どちらでもある。ただそのままのことだよ」と。

 翡翠の記録しんじつ詩のながさ

このコラージュのような俳句が作者の俳句を全く表しているように見える。全ての文節が全ての文節に掛かる。句末が句頭に繋がって輪になる。
そして、言葉がそこに残る。