福田屋を出発し、旧天城トンネルへ向かいます。

 


しかしこのときトンネルは工事中で、河津口(南口)側からは入れませんでした。
そこで、一旦北上して伊豆市の湯ヶ島口(北口)から行くことにしました。

 


このとき、新天城トンネルを通ったのですが、

雨ということもあって写真を撮り忘れました。
しかも雨脚が強くなってきました。

 


ようやく北口に到着しました。

 



そのまま、中へ入って行きます。

 

この旧天城トンネルは、全長445.5mあり、1905年に開通しました。

 



このトンネルは、石を一つ一つ積み上げる方法で造られた日本初の石造トンネルで、現存する石造トンネルの中で最長だそうです。
また、用いられた石は、伊豆の国市(旧大仁町吉田地区)の「吉田石」だそうです。



このトンネルは、伊豆市湯ヶ島と河津町を結んでいますが、

それまでは天城峠を越えるしかありませんでした。
しかし、この天城山は急峻な地形のために道づくりが難しく、

越えるのは大変だったそうです。

 

南口の手前で車を降りて歩いてみました。

 

 


1857年に、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、

日米修好通商条約締結のために下田から箱根の関所を経由して江戸へ向かう際、

この天城峠を越えるルートを使いました。
しかし峠越えは大変だったようで、その後の江戸行きは船にしています。


なお、ハリスが日記に残した『ハリス 日本滞在記』が岩波文庫から出ています。
近隣の図書館で探してみましたがありませんでした。

 

さて、南口を出ましたが、この先は通行止めになっていました。

 



再び、トンネルに入って北口へ戻ります。

 







1890年代に入って東海道線が開通すると、海上交通が衰退して、

南伊豆の人々の生活は天城山のために中伊豆と分断される状況になりました。


そのため、下田と三島を結ぶ下田街道の間にある天城峠にトンネルを作ることは、

南伊豆の人々の悲願となりました。
こうして造られたのが天城トンネルです。

 

北口側には、トンネルについての説明板がありました。

 

 

そして、1970年には新天城トンネルが造られ、
旧天城トンネルは「天城山隧道(ずいどう)」の名前で、

2001年に国の重要文化財になりました。
これは、道路としては初めてだそうです。

そのことを示す碑もありました。

 



北口側にはトイレも整備されています。

 



ところで、トンネル入り口の上部には「道隧山城天」の表示がありますが、
その下には、アーチを支える要石(かなめいし)があります。

 

 


この石は玄武岩で、表面が凹型のレリーフになっています。
一方、南口の要石は凝灰岩でできていて、表面は凸型のレリーフになっています。

 


二つの要石は、対になるようにデザインされているようです。

トンネル入り口の横には道が続いています。

 


この道を登って行くとかつての天城峠へ出るそうです。

さて話は変わって、川端康成の小説『伊豆の踊子』では、

彼は湯ヶ島口(北口)から天城トンネルへ入り、踊子の後を追います。


一方、松本清張の小説『天城越え』では、少年が河津口(南口)から入って湯ヶ島へ向かい、その途中で殺人事件が起こります。
なおこの小説は、実際にあった殺人事件をもとに書かれたものだそうです。

また、湯ヶ島で生まれ育った井上靖の自伝的小説『しろばんば』では、

仲間と一緒に天城トンネルを見に行くところが出てきます。

ついでながら、石川さゆりの歌『天城越え』も、

湯ヶ島側からトンネルへ向かうようです。

 

さて、幸い雨も上がり、北口側から下って次の目的地下田へ向かうことにします。