印象派展などでときどき目にするマルケという画家の絵。
以前から、淡い色調の彼の絵が気になっていました。
その画家の生誕150周年の展覧会を見るためにひろしま美術館へ行ってきました。

ひろしま美術館は今回が3度目ですが、前回はかなり昔の事なので、
ほぼ記憶から消えていました。
しかも、今回のマルケの展示場所は別館で、入るのは初めてでした。

今回は、約90点の作品を一挙に見ることが出来ました。
しかも、数点を除いて撮影OKということで、とても嬉しかったです。
作品をいくつか紹介させて頂きます。
アルベール・マルケは、1875年にフランス南西部のボルドーで生まれました。

1890年 息子の才能に気付いた母親は、15才の彼を連れてパリに引っ越し、
国立装飾美術学校へ入学させます。
1892年 マルケは、学校で5才年上のアンリ・マティスと出会います。
そして終生の友となります。
1893年 マルケは装飾学校を辞めて、国立美術学校へ入り、
マティスと一緒にギュスターヴ・モローの教室で学びます。
そしてモローの指導のもと、ルーヴル美術館でたくさんの作品を模写します。
1898年 彼が23才のとき、モローが亡くなります。
彼は、友人のアトリエでマティスと競いながら、制作に取り組んだのが次の絵です。
この絵で彼は、鮮烈な色彩を用いた新しい絵画表現の探求を行っています。
1900年 彼はパリ万国博覧会で、マティスとともにグラン・パレ装飾に参加します。
この年に描いた作品が次です。

「ノートル=ダム大聖堂、日没」(1900)
1902年 一家はパリ16区のヴェルサイユ大通りのアパルトマンへ引っ越します。

「パリのノートル=ダム大聖堂の後陣」(1902頃)
1899年から1904年にかけて、
マティスと一緒にパリのリュクサンブール公園などで戸外制作します。
晩年マルケは、純粋な色調で表現しようとしたのはこの時期だけだったと振り返っています。

「リュクサンブール公園」(1902頃)パステル画
1904年 サロン・ドートンヌに出品した「ビヤンクールの木々」が
国家買い上げとなります。
この作品は、今回展示されていませんでしたが、
ネットで調べたところ次のような作品です。
現在は、ボルドー美術館に所蔵されています。
当時のフランスは、若手画家の新しい風景画を積極的に収集していたそうです。
またこの年、モネの連作を見たことをきっかけに、
特定のモティーフを異なる時間や天候で描くようになりました。
次の作品は、1905年にサロン・デ・ザンデパンダンに出品した8点のうちの1枚で、
2点目の国家買い上げになっています。

「ノートル=ダム大聖堂、陽光」(1904)
次の作品は、1902年に引っ越したアパルトマンからの眺めを描いたものです。

「バルコニー、ヴェルサイユ大通り」(1904)
1905年 両親らと引っ越しました。そして、自宅から見えるセーヌ河岸、
ノートル=ダム大聖堂などの連作を開始します。
5月に友人とサン=トロペのシニャックを訪ねました。
そして秋に、サロン・ドートンヌにマティスと共に出品します。
ところがマティスらの絵は“野獣(フォーヴ)”と呼ばれて非難されます。
これがフォーヴィズム(野獣派)の始まりでした。
このときマルケの絵は、マティスやブラマンク達と同じ部屋に展示されたので、
同じグループと思われたようです。

「グラン=ゾーギュスタン河岸、パリ、霧」(1905頃)
1906年 父が亡くなります。
6月に、デュフィとともにノルマンディーの各地を巡ります。
以下の作品は、デュフィと訪れたル・アーヴルの港の風景を描いたものです。

「ル・アーヴルの縁日」(1906)

「ル・アーヴル、船渠」(1906)
1907年 2月に初の個展を画廊で開きました。
画商との契約で生活の糧を得たマルケは、この年から毎年外国に滞在して制作をするようになります。
8月に母が亡くなります。
1908年 この年の初めにサン=ミシェル河岸に引っ越します。
それは直前までマティスが住んでいた部屋でした。
ここからは、セーヌ川に面して右にノートル=ダム、
左にサン=ミシェル橋が眼下に見えました。
彼はここからの風景を繰り返し描きます。

「ノートル=ダム大聖堂、あるいはサン=ミシェル橋の冬」(1908-09)
1908年と1909年の2度、彼はナポリに滞在して独特の海景画を描きます。

「ナポリ、帆船」(1909)
絵の解説によると、このナポリ風景はしばしば日本の絵画と比較されるそうです。
形や色の単純化、遠景と近景の対比などに、葛飾北斎らとの共通点があるようです。
背景の山はヴェスヴィオ山ですが、これが富士山と対比できるとのこと。
1909年 マティスの勧めでドイツを訪れ、港湾都市ハンブルクで制作に没頭します。

「ハンブルク港」(1909)
マルケが河川や港湾の風景を好んだ理由は、
故郷ボルドーの港の記憶が背景にあるのではないかと言われています。
1910年 11月にヘルニアの手術を受け、1か月寝た切り生活になってしまいます。

「サン=ミシェル橋、パリの洪水」(1910)
1911年 8月にモロッコを馬で巡る旅に出ます。
1912年 春にフランス北部の都市ルーアンに滞在しますが、
天気が悪くて制作できないとマティスに手紙で訴えています。
そして一度中断した後、秋に再び訪れて描いています。

「ルーアン、ボワエルデュー橋とパリ河岸、快晴」(1912)
7月中旬にマティスと合流して南仏を訪れます。
次の絵は、印象派のような作品だったので驚かされました。

「ラ・ヴィレンヌ・サン・ティレールのマルヌ川」(1913-15頃)
上の絵と並んで展示されていたのが次の絵です。
ただし、制作年代は不明です。

「ヴィレンヌのセーヌ河、朝」(上原美術館所蔵)
1914年 8月にドイツがフランスに宣戦布告します。
幸い、マルケとマティスは兵役を免除されました。
1915年 11月末にマティスとマルセイユへ行きます。
第一次大戦で不穏な状況にあるパリを避けるため、
マティスの勧めもあって半年近くを港町のマルセイユで過ごします。
滞在中は、深い入り江になった旧港を多く描きます。

「マルセイユの馬」(1916)
1917年 モネがマルケの「ナポリ港」を購入しました。
そしてマルケは、マティスとジヴェルニーのモネ宅に招かれます。

「マルセイユの旧港」(1917)
1918年 ニースのマティスを訪ね、二人でルノワールを訪問します。
1920年 インフルエンザで苦しみ、1月に初めてアルジェを訪れます。
以来、冬をこの地で過ごすことが恒例になります。
そして、ここでの最初のガイドが、のちに妻となるマルセル・マルティネでした。

「ラ・ロシェル」(1920)
上の絵は、ポール・シニャックに誘われて、ラ・ロシェルで描いたものです。
1921年 5月までアルジェに滞在します。
その後免許を取り、フランス各地を旅します。
次の絵は、ラ・ロシェル近くのレ・サーブル・ドロンヌに滞在したときのものです。

「レ・サーブル・ドロンヌ」(1921)

「アルジェ港」(1922頃)
1923年 マルセルと結婚します。
1925年 以後26年間、冬はアルジェで過ごします。

「ラ・グレットの窓」(1926)
1931年 セーヌ河のポン=ヌフ橋のたもとにあるアパルトマンに引っ越します。
そして大戦後は、パリ近郊のセーヌ河畔の村ラ・フレットを行き来して過ごします。
1935年 5月にニースのマティスを訪問します。

「ル・ピラの浜辺(アルカション湾の帆船)」(1935)
次の絵が、今回のパンフレットに使われた作品です。

「ル・ピラ」(1935)
絵の中央の泳いでいる人を拡大すると・・・・

この思い切りのよい塗り方に感心しました。
こんな描き方ができればいいのですが・・・・笑
1936年 スイスに滞在します。
また、ヴェネツィア・ビエンナーレに参加し、この地を訪れます。
そして4か月近くヴェネツィアに滞在して制作します。
次の絵は、船の上で制作されたものと考えられています。


「ヴェネツィア」(1936)

1939年 冬のセーヌ川の連作に取り組みます。
1940年 ナチズムの抗議声明に署名しました。
そのこともあって、6月に南仏へ車で脱出し、9月末にはアルジェへ移ります。
この年から5年間、親ドイツ政権下のパリを逃れてアルジェを本拠地にします。

「ポン=ヌフとサマリテーヌ」(1940)
1942~44年 この時期は、港の艦隊をたびたび描いています。

「アルジェの連合艦隊」(1942)
1945年 5月初めに5年ぶりにパリへ帰国しました。

「ラ・フレットへの道」(1945)
1946年 アルジェを訪れますが、これが最後の滞在になります。
戦後はパリ北西部のセーヌ河沿いの村ラ・フレットとパリの自宅の間を
行き来して過ごします。
妻マルセルによると、ラ・フレットは最も居心地が良く、
制作に没頭できる場所だったそうです。

「道行く人、ラ・フレット」(1946)
1946年から1947年にかけて癌を患い、1月に手術します。
1月末に自宅に戻ると、街並みの雪景色に魅了されてすぐに連作に取り掛かります。
1947年 アトリエから見えるセーヌの雪景色が力となり、
最後の「ポン=ヌフ」連作を描きます。

「雪のコンティ河岸」(1947)

「雪と緑色の空、パリ(ポン=ヌフ)〔冬のパリ(ポン・ヌフ)〕」(1947、2月)
上の絵が、最後に描いた連作8点の内の1点だろうと考えられています。
4月初め、マティスが見舞に訪れました。
そして、6月14日に亡くなりました。

見終わった後、美術館の庭の一角にあるカフェでランチをすることにしました。

「芸北りんご入りのビーフカレー」というのが美味しそうだったのでこれに。
芸北りんごは、北広島町の標高600~700mの高地で育てられたりんごだそうです。
ただ、予想に反してカレーの辛味が全くなく、少し甘すぎました。(苦笑)
この後、この美術館のコレクション展示を見ることにします。








