またまた更新を大幅にさぼりました。
まだまだしぶとく生きております!
わたくしの2016夏を捧げた課題については
その後に実施された認定試験と併せ
先日なんとか合格し
とあるアヤシイ資格をもらいました(笑)
(1年間限定、2年目以降更新には約3万円必要!)
きっと更新しないだろうなぁ・・・
同時進行で
とあることについての
情報収集に行脚する週末。
やれ講演会、やれ無料体験セミナー、
体験者のインタビューやら資料探しやら。
実はこの記事も図書館で書いています。
資料読むの飽きちゃったのよ~(-_-)
今日は
そんな取材のさなかで感じたことも含めて
珍しくマジメな内容でお届けします!
(後半ではエラそうなことも書きます。
今から謝っておきますスミマセン!)
・・・・・・
ちょうどもう1年半前にもなりますが…
くも膜下出血を起こした
最初の入院中
思うように歩行も思考もできない中で
ずっと感じていたことがありました。
「働くことができない今の自分は、
社会にとって、
価値がない人間なんだろうか?」
小脳がやられていたので
平衡機能がめちゃくちゃになっていました。
立つという動作一つが、どうやっていいのか
「わからない」のです。
どうやってバランスをとったらいいのか
どこに力をいれたらいいのか
そして、「それがわからない」という理由が
わからない。
どうして、つい1週間前までできていたことが
急にできなくなるのだろうか・・・
悲しいとか悔しいを通り越して
ただただ呆然自失としたものです。
歩行リハビリ中、
私の頭の中で常にエンドレスで
流れていたフレーズは…
「♪~同情を欲したときに、すべてを失なうだろう」
歌舞伎町の女王/EMI Records Japan

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とにかく意地で意地で
一人自主トレです。
自分自身をかわいそうだとは思わなかったけど
かわいそうだとも思われたくありませんでした。
「かわいそうな人だと思ってほしい」と思ったら最後
なんだか
「全てが崩れる感じ」がしたからです。
頭の中のリハビリも同じでした。
さっきいったことをすっかり忘れる。
いったこと自体忘れる。
物のイメージはあるのに
言葉がなぜかでてこない。
なんというんでしょう、
脳の中の情報処理キャッチボールが
「困っています~次どこになげればいいの~」
脳細胞同士の困り感がよくわかるんです(笑)
集中力は続かないし
(作業療法士さんとの作業を
1分以上やると突然投げ出したくなります)
なんだか舌がスムーズに動かないので
しゃべれるけど、ぺらぺらしゃべれない。
(舌の動きが悪い、動かし方がわからない)
そして数字も覚えられない。
発症前は、10桁程度の数字なら
長時間覚えていることができました。
そして数字から音や色や匂い、
感触を感じて
その感覚とともに覚えるという
ちょっと変態的な(笑)クセがあったのですが
それが全くできなくなっていました。
(ちなみにどういうことかというと
3579~はレモンイエローで
ちょっとすっぱくて、
ほどよく弾力があり固い触感、みたいな。
6846~とかは、もはやブドウです。
紫色でジューシー、みたいな。
ね、わけがわからないでしょう?(笑)
これを誰にいっても理解されないので
変態的なクセだということにして
早25年くらい経過した(笑))
退院までに集中的なリハビリによって
歩けない、は解消されました。
(今でも左の腰はなぜか固く
首の後ろは硬直した感じがありますが)
記憶については難ありでした。
困ったなぁ。
(リハビリがてら書いたこのような記事で
何とか少しづつ
仕事ができるまでに復活しましたが)
実はいまだに記憶力や言語の部分の能力は落ちています。
だから必死なメモ魔になりました(笑)
そして「変態的な」数字の覚え方もいまだに復活しません。
まあ、これは別にいらないか(笑)
そしてスムーズに話すのもいまだに苦手!
あ、これは前から?
なんとか働くことができて
自分自身の大事なアイデンティティの一つ
「働けるということ」
が何とか叶い
しばらく、冒頭の問いである
「働けない自分は価値がない人間なのか」
も忘れていました。
ところがです。
こないだ、
障害者施設での
「生産性のない人間はいらない」という事件があり
先日働くうつ病の人に取材したときにきいた
「自分は給料分の仕事がきちんとできないから、
社会的な責任を果たせてないから、
生きている価値がないかもしれないなと思う」
という生の声を聴き…
(直接聞くとショックでした)
「絶対そうではないだろう」と思いながら
ではその理由は?
「働けない自分には価値がない」という
自分が自分に思った感覚に対しても
明確な「NO」という
アンチテーゼをどうしても出したい。
うーん・・・・。
生産性のない人間は、この世に存在してはダメなのか?
そうではないのなら、なぜなのか?
「誰にでも生きる権利があるから」という答えでは
ちょっと納得しませんでした。
うーん・・・
・・・・しばらく考えること3日。
きっと何か役割があるはずだ。
そういう「手間のかかる人たち」の
「周りにいる人たち」の心の中に
「やさしさ」や「協力」や「慈悲の心」を
思い出させるために
思い起こさせるために
その存在が必要なんじゃないか。
だから、そんな「手間のかかる人たち」も
必ずいなければならないんだ。
だから、もう
「いるだけ」で十分役目を果たしているんだ。
という答えではだめだろうか?
私が胸を張っていえる唯一のこと。
死ぬとき一番後悔することの一つに
「自分自身の心と体をちゃんと大事にしながら
人にどれだけ親切にしたか。
人をどれだけ助けたか。
人にどれだけ思いやりと愛情を与えたか」
これで「必ず」
多くの人が「死ぬほど」後悔して
また大変な人生を一からやり直します。
(私は幸運にも主治医とご先祖様に
やり直しのチャンスをいただいた)
これは妙に自信を持って言えます。
だって私自身が
三途の川を見て
帰ってきた直後に思ったことですもの!
ということで、
「動けない生産性のない私」でも
「病気で思うように動けないあなた」でも
もう十分OKなんですよ、ということです。
(本人の心の中は全く納得していないでしょうが、もうすでに、周りの人に貴重なチャンスをもたらしているのです)
それともう一つ。
発症した日、病気がわかった日、手術を受けた日。
なんでもいいですが、
そのとき一度自分は死んだのだ
と思うと、とてもアメージングなことが起こります。
私の場合は
平成27年4月3日に一度死んでいます(笑)
すご~い!
死んだはずなのに今生きてる~
なんか得した気分~
拾ったおまけの人生なんだから
じゃんじゃんばりばりいっちゃえ~と。
ということで、
病気じゃなくとも
失恋とか離婚とか就職失敗とか
仕事上の大ミスとか
なんでもいいんですが
常にそのとき一度死んだんだと思えば
あれ、一回人生終わってるじゃない?
なんだか細かいことで悩むのが
あほらしくなります。
そして、うまく想像できれば
残りの人生が急に
めちゃくちゃ貴重なものだったということに
死ななくても気づくことができるかも?
脳動脈瘤があってドキドキ不安な方。
くも膜下出血の再破裂でドキドキ不安な方。
脳動脈瘤の診断を受けた時点で
くも膜下出血を発症した時点で
あなたは一度ご臨終だったんです!
でも今、生きているじゃないですか~!
すご~い!
おまけの人生、どうぞ守りに入らず
イケイケドンドンでいきましょうね~(笑)
・・・最初は別のこと書こうと思ったのに
この記事になってしまったのは・・・
はっと気づいたら、
アップ予定日がお彼岸の日だ!
またまた、ご先祖様にやられた~(笑)





