大好きだった病院を辞める事は本当に辛かった。

患者さんの事を考えると市外はあり得なかった。



患者さん達に退職する事をお話しすると

ほぼ全員の患者さんが新天地に着いてきてくれると

言ってくれた。



高齢者の患者さんが殆どなためタクシーで

通院される方も多い。

入院中で闘病中の患者さんもいた。

その患者さん達を連れて行ける場所でなければいけない。



お誘いをいただいた病院の中で僕が選んだのは

手術もほとんどしていない給料もオファいただいた病院の中では一番安い病院にした。



給料面から言えば一番良かった病院と年収で1200万ほど差があった。

お金が全く欲しくない訳ではないが正直優先順位としてはかなり低い。



自分の必要なものが買えるのならそれ以上のお金は無くて良い。



自分の正義を貫ける病院が良かった

権力に屈するような病院には行きたくなかったし

トップダウンで現場の声が届かない病院は

絶対に嫌だった。




僕の専門とする領域は新規の立ち上げになるため

準備が大変だった。




今回は良い仲間と仕事がしたいと思った。


我が家の犬たち

去年の四月突然先輩から連絡があった。今まで個人的に連絡があったことは一度もない先輩だ。


大学を離れてから接点は殆どなく先輩は大学の関連病院で呼吸器外科部長をしていた。

その内容は自分の病院で診療科長という職務に就きたかったのに同級生にそのポジションを取られやる気が無くなったから今の病院を退職するという内容だった。



ほぼ愚痴の話を聞いていると

「俺がこの病院に来てやる。お互いWinWinの関係だ」

と言い出した。


内心最悪だと思いつつ先輩なのでその場は病院長に聞いてみますと言って話を流した。

翌日早速院長と事務長に話をしてその経緯と僕等はその先生とは仕事はしたくない事を伝えると院長がその話を断ってくれた。



この話はもう完全に終わったと思い安心していつも通り仕事をしていた。

だがその先輩は諦めきれず大学の教授に泣きついていたのだ。



それから半年後の9月に周囲からの噂でその先輩が外科部長として僕の病院に就職してくると言う話を聞いた。

勿論僕らには何も聞かされていない。



俺たちを差し置いてそんな事があるわけがない

そもそも同じ科に部長が二人になるのもおかしな話だ。



当事者である先輩へメールして確認したが全く返答がない。

事務長に連絡すると話を濁された。



6月に前院長が突然解任され僕の病院は新しい院長になっていた。

僕らの全く知らないところで大学教授がやって来て新院長と話を決めていたのだ。



そんな事があるのか?



こんなに頑張ってきた俺たちに何の相談もなく

そんな重要な話を決定するのか?



正義も何もない



権力を持った2、3人の意志が大勢の人の気持ちより優先される。



しかしそれが大学教授の権力だ



良くある話の一つにしか過ぎない



そして新天地を探すことにした…

幸い外科医不足であり11ヶ所の病院からオファーを頂いた。



市内の大きな病院から三ヶ所

市内の小さな病院やクリニックの引き継ぎや

地方の救急病院などからお話をいただいた。



現在みている患者さん達のことを考えると市外に行くことは考えられなかった。




ドラマ白い巨塔の様な医者のドロドロした世界は実在するのだろうか?



答えは実在するだ。



外科医は自己中心的な人種の集団だ。

勿論全員では無いが第一線で執刀を続ける外科医の

殆どは自己中な性格だろう。


周りの意見に左右され易い人間や決断力の無い

人間に第一線で執刀を続けるのは難しい。


患者さんの為に毎回涙を流していたら大学病院で

執刀を続けるのは難しい。




僕はそんな医者が大嫌いだ。




白衣を脱げば俺たちは単なる人だ

悲しくて涙も流す



僕が医者になろうと思ったきっかけになった

小児科の研修医の先生は入院して勉強の遅れた

僕に消灯時間を過ぎて毎日勉強を教えてくれ

ていた。



僕の医師像の原点は患者の為に毎晩夜遅くまで

残って働くその先生の姿だ。



外科医の殆どが知識と地位を得るとおごり

自分の都合の良いように正義を捻じ曲げる



そんな世界が大嫌いだった



そんな世界と関係のない病院で外科部長に

なり自分の信じる医療をしていたのに

またしても大学教授に自分の居場所を

奪われた。



ズルいことをする人間が得をする社会

真面目に生きる事が馬鹿らしくなる




いや


だからこそ俺は正々堂々と生きると決めた



権力には絶対に屈しない

日々努力 日々前進



そう言い聞かせて新たな道を選んだ


しかし世の中はそんなに甘くはないものだ。





外科医の仕事もピンキリだ。

勤務する病院の規模や性質で手術件数も内容も変わる。

僕が勤めていたのは市内の中核病院だった。

大学病院の教授の言う事が絶対であり研究のために不必要な手術をするようなやり方にしたがえなくなった。

13年前に教授と大喧嘩して大学を辞め自分の信じる医療がやりたいと思い飛び出した。

不思議な縁があってその病院に勤務することができた。


三次救急を扱う病院であったため毎日忙しかった。

朝は9時前から手術。多い日は一日4例の執刀をし夕方5時過ぎから入院患者の回診をしカルテを書いたり手術記録を書いたりしていた。


帰宅してからも毎晩電話がかかりいつ呼ばれるかわからないため当然ノンアルコールの生活だ。


年間400例近くの執刀をしていたので気が休まる日はなかった。


外科医の腕のピークはおそらく40代だろう。


残念ながら外科医はスポーツ選手と同じ様に引退しなければならない時が来る。


1番の原因は視力だ。加齢と共に手先もわずかに震える。血管を手術する僕にとっていずれも致命的だ。

自分にそんな時が来るなんて考えたこともなかったが今は日々衰えを感じている。


やりたい事も我慢して仕事と家事に追われていた。

一年365日病院に居た。

気が休まる日は全くない生活。


しかし患者さんからの感謝の言葉が何よりの報酬だった。


それがあったから続けることができた。

給料も他の病院に比べれば安い

休みもない


あるのはやり甲斐といい仲間達


それに支えられ13年間頑張り続けてきた。

それなのに…。










妻と離婚し9年 息子二人と男3人暮らしだった。

 

朝は6時半に起床し子どもの朝ごはんと弁当づくり息子を駅に送りゴミ出しをして仕事に向かう。

朝は戦争の様な毎日 外科医と言う仕事をこなしながら多い日は1日4件の手術。

 

子供達がお腹を空かせる頃に一度家に帰り夕食を作り家事を一通りした後

午後11時半ころに病院へ戻り残った仕事をかたずけ就寝は毎晩午前2時すぎ。

 

それをひたすら繰り返していた。

 

長男が東京の専門学校へ行ってしまい次男は高校受験に失敗した後くらいから毎日ゲームとスマホの生活になってしまった。

高校2年の2学期が始まってしばらく経ってから高校を辞めたいと言い出した。

 

たった一度の挫折で挫けてどうすると次男を必要以上に怒鳴り散らした。

 

自分自身が3月に13年間命がけで働いてきた病院の外科部長のポジションを横取りされ退職することになりこの1年間自分のことで頭がいっぱいだった。

 

次男のことをしっかり見てあげることができていなかった。

 

自分自身が毎日きつい仕事と家事に追われていたせいか挫けて弱音を吐く息子に対して必要以上に強く怒鳴り散らしてしまった。

 

そして息子は元嫁のところへ行ってしまった。

 

突然やってきた一人暮らし。

 

今までが忙しすぎたために息子がいなくなり頑張る目標もなくなり廃人のようになった。

 

しかし新しい病院でも毎日のように患者さんが来て手術をしなければならない。

 

家に帰れば何もする気も起こらない。

 

食事もつくることもなく冷蔵庫の中にあるソーセージや残った食材を何の味付けもなく食べる生活になっていった。

 

俺の大切なものは全部無くなっていく。

 

手術にも疲れ生活にも疲れ毎日がきつかった.....。

 

立ち上がろうと思っても立ち上がる目的も目標もなく立ち上がることのできない日々が1ヶ月つづいた。