No.106 中国1980’s 天安門事件前 | D菩薩の仕事いろいろ趣味いろいろ

D菩薩の仕事いろいろ趣味いろいろ

仕事 海外生活 登山 スキー ゴルフ 鉄道 飛行機 模型 映画 etc. 時空を超えてビジネスと趣味の軌跡を写真でたどる半世紀

6月4日は天安門事件から30年。今週のメディアはその追悼と中国報道であふれていました。世界を震撼させたあの事件の直前の5年間、日本人の思い出が悪いことばかりでなかった中国の戦争体験者と普通に話したり、ちょうど日本政府がもっとも精力的に行っていた現地の空港や病院、地下鉄などのインフラ開発援助について日本人というだけの理由で直接お礼を言われるような、今では想像もできない中国人との交流を私は経験しました。

 

そんな古き良き時代を引き合いに、最近では社内の中国人の若者たちに「昔は今より不便だったけど、中国人も日本人も心は豊かだったんだよ」と説教するような謎の爺さんになってしまって久しいです。

 

 

1985年に生まれて初めて見た天安門広場はこんな感じ。
イメージ 1
巨大な毛沢東の写真の本物を見てなぜか興奮です。

 

 

わずか4年後にここが若者の血に染まるなんて…。
イメージ 2

当時の中国といえばどこへ行っても自転車の大群。
イメージ 3

今は高層ビルがひしめく北京市街も、当時は見渡す限り低い灰色の屋根が続いていました。
イメージ 4

その点、上海はかつての欧米租界が残した異国情緒にあふれ、気候も良い明るい街です。
イメージ 5

アパートの物干しに洗濯物といっしょにぶら下がる使用済みのコンドームを初めて見たのはこのときです。今なら大喜びで写真を撮りますが、さすがのD菩薩も20代では恥ずかしくてできなかった。当時の中国製は丈夫で再利用できるけど、感度は最悪。なので、成田空港の薬局で耐久性も感度も抜群の「憧れの日本製コンドーム」を仲の良い取引先幹部へのお土産に買っていく同行出張者のオジサンたちもいました。

 

 

上海のトロリーバスです。
イメージ 6
何気なく撮った1枚に当時の中国の「イケてる」ファッションが凝縮されています。

 

 

あのころの子供たちは、しゃがめばすぐに用を足せる「尻割れズボン」が当たり前。
イメージ 7

最近のブルジョア層の生活の西洋化で尻割れズボンは都市部ではあまり見かけなくなりましたが、地方や農村ではまだ一般的です。そんな中、農村の女の子の体内に稲が入り込んで発芽してしまったのを手術で取り出したとか、移民の子がアメリカで通報され、尻割れズボンは「虐待」か「文化」かで米中ネット対決が炎上したとか、両国とも月へロケットを飛ばす21世紀になっても濃厚な物議を呼ぶ代物のようです。

 

 

飛行機も鉄道も今のような高速ネットワークがなかった時代、「列車」は外国人にも重要な移動手段でした。
イメージ 8

一等車で乗客を出迎える車掌さん。
イメージ 9

山西省の省都・太原から上海まで一等寝台で長駆20時間。
イメージ 10

中国で機器のサービスとメンテを委託する上海医用光学技器廠の技師・馬さんもいっしょ。
イメージ 11
上海人の垢抜けたセンスに加えて、外国人慣れしている馬さんも一等寝台はこのときが初めてで大はしゃぎ。

 

 

深夜、河北省の省都・石家庄に停車します。
イメージ 12

ホームにはお腹を空かせて食べ物を求める殺気立った人だかりが…。
イメージ 13

それは、あっという間に売り切れます。
イメージ 14

いったい何を売っていたかというと…。

 

 

「D先生(さん)、ここ石家庄は、鶏がとても有名ね!」。俊敏で要領の良い馬さんが、あのホームの雑踏の中から鶏の丸焼きを2羽ゲットしてくれました。
イメージ 15
けっこう痩せていて食べるところがあまりないと思った鶏を馬さんはクチバシから足の先まで骨も含めてバリバリとほとんど全部食べてしまいました。食べること、生きることへの中国人の情熱。その強烈な洗礼を受けた道中でした。

 

 

太原は中国の典型的な地方都市。
イメージ 16
それでもこのとき人口1000万と聞かされ、そうか、中国の人口は日本のちょうど10倍だから、1000万の太原は日本の100万人都市のイメージだなと、様々な領域での「換算」を身に着けていったものです。

 

 

娯楽の少ない当時の中国では大道芸が盛ん。
イメージ 17
まだまだ公開処刑なる「娯楽」も主流でした。
https://blogs.yahoo.co.jp/college_view_1541/15719566.html

 

 

9月はもちろん中国でも中秋の月を愛でます。
イメージ 18

スーパーもコンビニもない時代、地元の人々の買い物は昔ながらの市場でした。
イメージ 19
これはたしか湖北省の武漢。

 

 

アヒルは生きたまま量り売り。
イメージ 20
中国の女性にとって、あのころアヒルを家で生きたまま絞めて捌けることが主婦の心得でした。市場からは、両足をひもでしっかりと縛って、それを自転車のハンドルに引っ掛けて帰ります。アヒルを逆さ吊りにして苦し紛れにガ~ガ~鳴かせることで、「うち、今夜はアヒルのご馳走よ~」と隣近所にアピールしていたとか…。笑

 

 

これは武漢の街角の人だかり。
イメージ 21

よく見ると、麻雀牌の露天商です。なぜ牌が露天?
イメージ 22
ちなみに露天の理髪店は中国の他に南米とかでも見掛けましたが、露天の歯医者だけは中国でしか見たことがありません。歩道で大口あけて治療を受けているおじさんが、見てて怖かった。

 

 

当時の上海一の繁華街、南京路が港に突き当たった黄浦江は、植民地時代の風情が満載のおしゃれ地区。
イメージ 23
私の大好きな常宿、和平飯店のクラブでは占領時代からのヨボヨボのおじいちゃんジャズバンドがまだ現役でした。

 

 

黄浦江の対岸は、モノトーンの工場と倉庫群。
イメージ 24

撮り放題なデジカメならともかく、なぜフィルムの貴重だった時代にこんな殺風景な写真を撮ったのか、自分でも不思議だったのですが、30年以上経った今、それはとても価値のあるものになったと思います。

 

 

いま同じ場所から撮った写真がこれ。
イメージ 25

期せずして上海を代表する、いや中国を代表する景色のビフォアとアフターがここにあったのです。

 

 

さてこのビフォアとアフター。天安門事件を挟んで、どちらが幸せな世界なのか? 答えはまだ出ていませんね。(おわり)