1995年1月16日、私はフロリダ州オーランドのリゾートホテルにいました。毎年この時期に世界のVIP医師たちを集めて開催する学術会議にアテンドするためです。
会議は昼までに終了し、午後は先生方と連日ゴルフというのが、毎年恒例の新年最初の何とも優雅で贅沢な海外出張でした。
その日もゴルフのあとシャワーを浴び、18:30からリゾート内で夕食。風呂上がりに南国の風を受けながらぶらぶらとレストランへ向かう途中で友人のドイツ人教授に声を掛けられます。「さっきテレビの速報で見たんだが、日本で地震があったらしい。Kobeってとこ知ってるか?」「あ、そこ、うちの奥さんの実家で、僕の両親も近いですよ」…などと返しつつも、もともと関西で地震という感覚はどうも鈍くて、あまり気に止めることなく、ビールにワイン、あまり美味くないけどサイズだけは特大のステーキ、アメリカ人VIPの余興マジックと、これも毎年恒例のルーチンでダラダラと過ごしたあと、けっこう酔っ払って部屋に戻りました。そして、何気なくつけたCNNニュースでいきなり目に飛び込んだのが、この映像です。
阪急伊丹駅から私の実家まで直線距離で5km足らず。酔いなど一気に吹き飛びますが、まず何をして良いかわからず、ただ体が信じられないほど震えました。気を取り直して、実家に電話しますが、つながりません。それだけでもうこの世の終わりのような不安に襲われます。そこで東京の自宅にも掛けますが、これも何回かけても話し中。そうか、アメリカから日本への回線がパンクしてるだけなんだ。まだ実家の望みは捨てなくて良い。
フロリダの真夜中は日本の17日の昼過ぎです。インターネットが広く普及する前の時代、情報源はテレビのニュースだけで、さすがのCNNもたぶん大混乱の中でNHKや民放から時間差で回ってくる情報では、断片的すぎて正確な被害状況はさっぱりわかりません。が、映像だけは雄弁で、それが余計に不安を駆り立てます。
その後、CNNが最初に出した死者数のテロップは31人。翌々日シカゴ経由の帰国便で読んだ朝日新聞では、それが500人に増えていました。
その後、CNNが最初に出した死者数のテロップは31人。翌々日シカゴ経由の帰国便で読んだ朝日新聞では、それが500人に増えていました。
結局、私と奥さんの実家は、いずれも家屋、家財とも相当なダメージでしたが、両親、親族、近しい友人たちはみんな無事。でも「不安なときに近くにいなかった」と奥さんには文句を言われました。
そこでせめてもの罪滅ぼしに震災から2週間あまり経った2月初めにわずかな食料品などザックに詰め、新大阪まで再開した新幹線で両方の実家に赴きました。普段なら電車で15分の西宮北口から三宮まで臨時の振替バスで3時間以上かかり、そこから奥さんの実家まで1時間半ガレキの中を歩く途中の景色はこの世のものとは思えませんでした。
生田から花隈、下山手界隈の雑居ビルが軒並み斜めに傾く中を歩いていると、平衡感覚がおかしくなって気持ちが悪くなります。サイレンを鳴らして行き交うパトカーは愛知県警に広島県警、救急車が福井市消防、実家近くで水をもらった給水車は横浜市水道局と、全国の緊急・救援車両が総動員されていたようです。
それから6年あまり経った2001年9月11日。私はNYから出張で東京の八王子にいました。仕事のあと駅前で仲間と飲んで、そろそろお開きというころ、音声を切っていた店のテレビにこんな画像が映し出されます。
一目でNYのWTCビルとわかりますが、「中継」のテロップがよく見えず、これって映画かな? 何だっけ? キングコング?とかボケたことを考えていたら、誰かが、おい、これ、中継だ! 火事だ!と店中が騒然となります。そして店主がボリュームを上げてみんなで食い入るように見ていた刹那、 2機目の突入をライブ映像で見てしまいました。
一目でNYのWTCビルとわかりますが、「中継」のテロップがよく見えず、これって映画かな? 何だっけ? キングコング?とかボケたことを考えていたら、誰かが、おい、これ、中継だ! 火事だ!と店中が騒然となります。そして店主がボリュームを上げてみんなで食い入るように見ていた刹那、 2機目の突入をライブ映像で見てしまいました。
すぐに携帯でNYの自宅に電話しますが、このときもやはりつながりません。急いで戻ったホテルのテレビはどの局も事件をライブで報道しており、この夜は食い入るように朝まで起きていました。さすがにツインタワーが立て続けに崩壊していくシーンには言葉を失います。明け方近くにNYと電話がつながり、その頃には現地の奥さんより日本にいた私の方が詳しい状況を把握していました。
このとき私のように海外にいた社員は、米国内の全空港が3日も閉鎖されたため予定どおり帰れなくなりました。ちょうど家族とバハマにいてそこで「監禁」され休暇が伸びてラッキーだったパターンもあれば、逆にアメリカから日本へ帰国できなくなった出張者、NYから当日朝の国内便で西海岸出張へ向かう機内でテロ発生のアナウンスがあり、最寄りのフィラデルフィアに強制着陸のあと何が何だかよく理解できないまま武装した警官隊にターミナルから追い出され、空港のレンタカーもホテルも瞬時に空きがなくなってしまい、夜中まで何千人という群衆とともにタクシーの順番を待った駐在員などさまざま。
このとき私のように海外にいた社員は、米国内の全空港が3日も閉鎖されたため予定どおり帰れなくなりました。ちょうど家族とバハマにいてそこで「監禁」され休暇が伸びてラッキーだったパターンもあれば、逆にアメリカから日本へ帰国できなくなった出張者、NYから当日朝の国内便で西海岸出張へ向かう機内でテロ発生のアナウンスがあり、最寄りのフィラデルフィアに強制着陸のあと何が何だかよく理解できないまま武装した警官隊にターミナルから追い出され、空港のレンタカーもホテルも瞬時に空きがなくなってしまい、夜中まで何千人という群衆とともにタクシーの順番を待った駐在員などさまざま。
さらにはテロ発生時に中西部のクリーブランド出張中だった西海岸勤務の日本人とアメリカ人の3人組は、レンタカーでカリフォルニアまでの4000kmを交代で2日で走り通したツワモノでした。彼らの感想は、アメリカ人でさえ一生行くことなどないと思っていたネブラスカ州が「果てしなく広くて長かった」です。笑
そんなこんなで私は4日遅れでNYに帰りましたが、少し身近なところでは、長男の現地校の友達のお父さんが消防士として崩壊前のツインタワーに突入して殉職。また同じ会社のアメリカ人で証券マンの弟が犠牲になった人もいました。そして私はこのときもまた奥さんに言われました。「不安なときに近くにいなかった」
そして7年前の2011年3月11日、私は西新宿のオフィスにいました。14:46の一撃目が収まったあとも、通りを挟んだ京王プラザホテルが余韻でゆらゆら大きく揺れているのが見てとれ、衝撃の凄さを改めて感じます。自分のいる29階建ての14階もいつまでも船に乗っているようですが、すぐにまた2弾目、3弾目の余震がきます。目撃したビルの初期被害は、非常階段の壁にヒビ、それにカフェテリアの天井の崩落でした。
そんな中、まず社員の所在と安否を確認します。部のメンバー51人中、海外出張中が13人、開発との会議で八王子に行っているのが6人。中国からの研修医を本郷の東大病院へ案内中なのが1人。残りの31人はひとまず居室に集まりました。幸い電話が通じていたので、八王子の6人の無事は程なく確認でき、いちばん心配だった地下鉄で東大病院に向かっていた女子社員は、途中で電車から降ろされた御茶ノ水で運良くタクシーをつかまえ中国人の先生を2時間かけて銀座のホテルまで届けたところで公衆電話からオフィスの固定電話に連絡が来ました(あのとき携帯は全然ダメでしたね)。そのあと都内に勤務する姉と落ち合い、今夜は姉の家に泊まると言うので、心配だった1人の今夜の安全をひとまず確認。
そんな中、まず社員の所在と安否を確認します。部のメンバー51人中、海外出張中が13人、開発との会議で八王子に行っているのが6人。中国からの研修医を本郷の東大病院へ案内中なのが1人。残りの31人はひとまず居室に集まりました。幸い電話が通じていたので、八王子の6人の無事は程なく確認でき、いちばん心配だった地下鉄で東大病院に向かっていた女子社員は、途中で電車から降ろされた御茶ノ水で運良くタクシーをつかまえ中国人の先生を2時間かけて銀座のホテルまで届けたところで公衆電話からオフィスの固定電話に連絡が来ました(あのとき携帯は全然ダメでしたね)。そのあと都内に勤務する姉と落ち合い、今夜は姉の家に泊まると言うので、心配だった1人の今夜の安全をひとまず確認。
そのころにはビル内のコンビニから食品がいっせいに消える一方、
余震が続く中、会社からの徒歩帰宅の許可を待ちながら仕事を続けます。
午後5時ごろ、総務部から半径15km圏内の徒歩帰宅がOKされたので、31人中18人を三鷹、調布、世田谷など方向別に5つのグループに分け、グループ全員の無事を確認して最後に連絡してくるリーダーを決めて出発させます。残りの13人は私を含め今夜は会社に泊まりです。そのころには家族の無事も確認でき、奥さんは都内の勤務先で泊まり、高2の長男も吉祥寺の学校で泊まり、小6と小2の次男と長女は地元の学童保育におばあちゃんがお迎え。
ところで、うちのメンバーの逆パターンで新宿の会議に来て地震に遭遇した八王子社員も今夜はこっちで泊まりですが、「出張先」で割りと自由に動ける彼らは晩飯ついでに近くの居酒屋へ飲みに行ってきたようです。聞くと、頻繁に余震が続く中、けっこう店は盛況だったとか。じゃ、腹も減ったし、オレたちも行くか!と、男8人、女5人で駅前に繰り出します。23時近くなってきて、都営地下鉄や京王線が部分的に運転を再開したようですが、小田急やJRの南口コンコースにはこんなに人が溢れ、新聞紙など敷いて夜明かしの準備をしています。
まだ3月の外気は冷たいです。
中には午後の買い物に来て災難に遭ってしまった感じの辛そうな老夫婦なんかもいて、暖房のよく効いた広々としたオフィスに帰れる私たちは、ちょっと罪悪感です。でも仕方ありません。とりあえず腹を満たしてネグラに帰ります。
翌朝は、家族の車の迎えや運転再開した電車で全員が帰宅するのを見届けたあと、新宿駅で奥さんと待ち合わせて再開したての京王線で帰宅しました。いろんな場所でいろんな事件に遭遇しましたが、今回は「近くにいなかった」とは言われませんでした。(おわり)