失格者とは、格を失い格付け出来ない人。 | cyunsanバニラソフトのブログ

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生き残りの古代人、
頑固なままの侍。

不器用です

部下や上司、同僚の働きを正しく把握する事は大切です。

目に見える形で汗していたり、動いたり、苦労していたり、
結果も途中の苦労も、見てあげるだけの力量を
備えておくことは大切です。

どれだけの働きなのかを見てあげることは、大切。



それは、家族でも同様に、
奥様・旦那さん、
子供たちの頑張り。

互いに見てあげるだけの力量が
互いに必要ですよね。



地域社会での
さまざまな活動でも、
同様です。


あの人は頑張っている。
それを見定めてあげる。



それらの
全てで、
もしも正しく見定める事が出来ないでいたら、
それは失格者です。



会社員として、
上司や部下や同僚の働きを正しく見定められなかったら、会社員として失格です。

家族の心を見定められなかったら、
家庭内で、失格者です。

奥さん、旦那さんが、子供たちが、
どれだけ苦労していたり汗しているのか知らない、評価出来なかったら、
家庭を持つ資格さえ無い。

地域社会でも同じ。



群馬県内では
多数のスポーツ選手が生まれた。

日の丸をつけた選手。
国内でトップの成績をあげた選手。

群馬県内には多くのスポーツ選手が生まれ、そして今も頑張っている。


だが残念ながら、
県民は応援出来ていない。



あるスポーツ選手が良い成績をあげたが、
応援しない人に聴くと
『あの人の親が悪い』と…。

なんだなんだ!!
と私は常に怒りを覚えてしまっていた。

国のトップの成績をあげるには、
とてつもない時間を
汗と血の涙で積み重ねなくては出来ないこと。

平凡な時間を積み重ねたら平凡しか結果が出ない。

尋常ではない時間を積み重ねて始めて産まれるものがある。


ましてや、
子供の年代であったり、
孫の年代であったりするのが、
若い世代です。

その子供たちが懸命に頑張っている姿を見て、
その評価が出来なかったら、
その人は人生の先輩として失格者です。




群馬県内では、

ザスパ草津、
ダイヤモンドペガサス、
富士重工業陸上部、
太陽誘電ソフトボール、
日立(旧)ソフトボール、
バスケット、

その他では、
日本プロ野球機構に所属している選手、
他のJリーグに所属している選手、

その他のスポーツで
多くの若者たちが頑張っています。


芸能界では
群馬出身および群馬県民がらみの人が多数います。



ところが、
それらの人たちを応援出来ていないのが実状。


県内屈指の教育指導者でも、
『あの人の親は…』と聞いた時には、
あまりにも人間的に幼いのに
失望した。
気を失いかける程に失望した。


たとえ親が犯罪者だったとしても、
かえってその重みを背負って頑張っているのならば、余計に応援したくはなりもしないのか。

家族が足りないなら、
その家族の愛情が不足している部分を補ってあげる応援をするのが人間的な愛である。



ザスパ草津は経営窮地に陥っている。
その情報を県で広めたので、いまさまざまな寄付が寄せられている。

だが肝心な
試合観戦者が少ない。

他のスポーツ競技でも、
観戦者は少ない。


熱心に応援出来ていない、


出来ないのが現状の群馬県民。


子供たち、他人が頑張っている姿を
応援出来ない。

結局は、
他人の頑張りを評価出来ない人間的な幼さ・未熟さが、応援出来ない要因となっている。


ザスパ草津は、ザックジャパン同様に攻めない。常に後ろ向き。
毎試合、頑張っているけども。
点が取れない。
勝てない。
負け試合ばかり。


だからといって、
それを応援出来ない理由にするのは言い訳に過ぎない。


寄付して下さる皆さんには、
是非ともなるべくなら次には試合観戦をお願いしたい。

群馬ダイヤモンドペガサスは、
皆さんお馴染みのラミレス選手がチームを引っ張って、
面白い試合をして下さっている。
でも、試合観戦者が少ない。


もどかしいのは、
頑張っている人を応援出来ない県民の姿。


古代の群馬には、
上ッ毛野の民が住んでいた。

日本書記・続日本書記・
万葉集などなどの執筆に深く関わってきた。

藤原鎌足の妻は車持与志古姫、
その車持氏族が住んでいたので、
その車持から転じて群馬県となった。
与志古が産んだのは定恵と不比等。

その不比等からは
聖武天皇・光明皇后夫妻が産まれた。

文武天皇を始め藤原四家も、
藤原鎌足と車持与志古夫妻の家族である。


そして、
同時の群馬県には、
大陸や半島・ヨーロッパからも人々が交流していた。
金井淵古墳からは鎧を着けた大王が発掘された。
渡来系の古墳と埋蔵物が高度の文化を示す品が多さは、
上ッ毛野の民の積極性と寛容性を象徴している。
江戸時代には、
甘楽城を七代に渡って城主を務めたのは、
織田信長の子孫である。


その寛容性が高く積極性を備えていた上ッ毛野の民の群馬に大きな変化をもたらしたものは、
関東官令の上杉家の没落と箕輪城の落城である。

滅ぼした武田軍は、
箕輪城下に入り、
直ぐに武田軍も滅びた。

戦によって勝利した他民族の侵入が一気に行われた。
沼田から長野は
真田家が隆盛を迎えた。


寛容性が広く積極性がある上ッ毛野の民は
消えた。

だが、
皇族での重要な位置は
今でもって存在している。

現在の皇后さまは上ッ毛野の民である。

伊勢神宮の内宮の入り口階段には、
甘楽地方の特産物である緑色の三波石が敷かれている。


その誇り高い民が、
人間的な成長と共に
蘇ることを常に願っています。