僕は大体電車で本を読むときは、カバーを外して、カバーは家に置いていくのですが、この本の1巻はそうはいきませんでした。

 

それはなんというか、あくまで嫌悪感とか自意識とはまた別の配慮だと思っていただきたいです。

 

「これを読んでいる自分が・・・」「アートとして捉えられない」というわけではなく、やはりカバーの下に秘されていたものですから、大勢の人の目に触れさせるかどうかの判断は、各々がすればいいと思います。

 

それは、時代が追い付いているとかいないとか、正しいとか間違っているとかとはまた別のことなんじゃないかなっていつも思うのです。

 

理解する。

 

受け入れる。

 

こととはまた別。

 

 

2巻以降、テイストが変わったのは、恐らく「苦情があった」からではなく、本当に作品が言いたいことを伝える上で、取るべき手段の取捨選択があったからだと個人的には思います。

 

何かをしていないから、理解できていないということではないし、違和感が残りながらも理解しようとすることも必要で、ゴールを変に決めないほうがいい気がします。

 

さて、余計な前置きをしてしまいましたが、NHKでもドラマ化された本作。

 

2015年文化庁メディア芸術祭でマンガ部門優秀賞を受賞しております。

 

だけど、7年間も読めておりませんでした。

 

と、言うか勉強不足で恥ずかしいですが、つい最近までその存在を知らず・・・。

 

やはりいつも思うのですが、「当事者」のことは、当事者にしか分からない。

 

だけど、その苦悩に想像力を働かせることくらいは、我々にもできると思うのです。

 

2015年の日本人の価値観って、またちょっと違ったと思います。

 

その頃の読者は、この作品をどう捉えたのでしょうか?

 

今よりも遅れているということではなく、やはり単に情報が少なかった。

 

言いたがらない、むしろ放っておいてくれという人達だっているはず。

 

そんな中でこの作品を世に出すということは、やはりとても勇気のいることだったと思います。

 

差別をなくすということは、難しいかもしれませんが、減らすことはできる。

 

だけど、そこには必ず衝突が産まれる。

 

というか、浮き彫りになる。

 

僕は、受け入れられないことも、致し方ないとも思っています。

 

だけど、相手を攻撃することは違うと思います。

 

相手に「理解」してほしければ、武器を持たないこと。

 

そして、無理矢理自分の思想を押し付けないこと。

 

まずは、凪を作る。

 

そこから、時間はかかるかもしれないけど、交渉のテーブルにつける人たちが、新しいスタンダードを作り、浸透させていくのではないかと思います。

 

少し飛躍した話になりますが、このように複雑なテーマを描く様々な作品の中で、子供は「素直」な存在として描かれることが多いです。

 

差別意識のありなし、どちらのパターンでも。

 

なしのパターンでは、何気ないシーンで大人が「ハッ」とさせられるところが描かれる。

 

逆の場合は、人間の持つ残酷さを。

 

ピュアだからこそ。

 

それについて、思いついたことと言うか、言いたいことが出来たので、それはまた別の機会に書かせてもらうとして。(この作品の中でも「大人ってなんだろう」と言及されていますし。)

 

全4巻。

 

素晴らしかったです。

 

もちろん、相手をぎゃふんといわせる必要なんてないのだけど、もしも差別を目の当たりにした際に、自分が取るべきスタンスや、発すべき言葉。

 

そんなものを学んだ気がします。

 

実際自分がそんな行動が取れるかどうかわからないとも思うけど、僕にはそう言った知人も多い。

 

だからこそ。

 

本当に、だからこそ。

 

フラットに。

 

完了