その作家特有の言葉選び。
それを、僕は「言語感覚」と言ったりしています。
分かりにくいけど、美しいもの。
こねくり回し過ぎて、分かりにくいもの。
徹底的に無駄を排除したもの。
この作家のセンスと判断って、ものすごく大事なんだなぁということを最近とても感じています。
台本を書く時もそうですが、「読む人がいる」という意識が、悪い方に働くと、やたらと気取った文章になり、読みにくいし、伝わりにくい。
作家の詩を朗読するためのキャラクターになってしまい、その人の「実在感」が奪われてしまう。
もちろん、そういう魅力的な作品もたくさんあります。
一番大事なものは何なのかを判断する方法って言うのは、きっと「経験」なんだろうなと思います。
合う合わないで、ストーリーへの没入感が変わってくる。
それを計算して文章を書かなければいけないなと常々思います。
さて、話は少し逸れましたが「プシュケの涙」のことを。
僕はよく、想像力の話をします。
その人のバックグラウンドに想いを馳せることの大切さ。
例えば、耐えがたい悩みをSNSで吐き出した人がいたとして、大体それに想像力の無い人が「こうすればいいじゃん」と平気で無神経な言葉を投げかけたりします。
物事はそんなに簡単ではない。
もちろん、ものすごく簡単なことなのに、視野が狭まっていて気が付けないということは多々あります。
だけど、多くの場合その人をがんじがらめにしているものって言うのは、幾重にも積み重なり、またさらに色々な要因がその人をそこから抜け出せなくしています。
その苦しみが10年続いている人に、「こうすればいいじゃん」はあまりに安直なんです。
その10年を想像できていないから。
何度も抜け出そうとしたかもしれないこと。
それでもできなかった絶望を思えないから。
そもそも、じゃあ発言しなければいいという言い方もあります。
もちろんそう、沈黙は金。
だけど、SNSって、悪意を持って他人を傷つけたりしなければ、基本的には勝手気ままなことが言える場だと思います。
世界中から「どうでもいいこと」が集まる場所程度に考えておくのがいい。
どうでもよければ見過ごして、許せなければ見えないようにする。
苦悩を呟いた人は、もう呟いたことで少しスッキリしているわけで、それを誰かと議論したいわけでも、世界を変えたいわけでもないかもしれない。
国語のテストでみんなが100点とれないってそういうことですよね。
読解力もそうだし、書き手の文章表現力も。
本当に言いたいことを100%表現できる文章なんてあるのだろうか?
書き手の言いたいことを100%読み取れるひとなんているのだろうか?
でも、書かずにはいられない。
独り言でも。
誰にも読まれない秘密の日記に書くのとは訳は違う。
だからこそ、ボトルに手紙を入れて海に流すみたいに。
僕のブログもそうですね。
読み手がいる。
誰でも見ることができる。
だけど、インターネットにアクセスする誰もが、椅子に縛り付けられて僕のブログを必ず毎朝全文読まされるわけじゃない。
好きの反対は無関心とは言うものの、なかなか無関心を決め込めるひとは少ない。
バスの運転手さんがカレーを食べているのが気に食わないなら、わざわざ的外れな価値観を押し付けず、その会社を2度と使わなければいい。
あなたが嫌ならば。
選択肢はいくらでもある。
この作品の面白いところは、そこだと思います。
先に全てが起きてしまう。
そして、後から彼らのバックグラウンドが明かされていく。
もし先に、知っていたら?
あなたは本当にその行動を取ったの?
というような。
知らないことは悪いことではない。
人は皆、辛い顔を隠して生きている。
だからこそ、そこに思いを馳せることが大切なんじゃないかなと思う。