ペニシリンでございます!

 

おはようございます。

 

伊藤です。

 

神は、乗り越えられる試練しか与えない

 

という素晴らしい言葉がありますよね。

 

ただ、とにかく苦しんでいる人にかける言葉としては、果たして適切なのでしょうか?

 

この言葉には、「あなたにはその力がある」とか「あなたにはその価値がある」「その先に大きな成長がある」みたいなニュアンスも含まれているのだけれども、果たして、この試練ってのは、本当に【神】が与えているのかい?と僕は思うわけです。

 

そもそも、【試練】と言う言葉には、「実力・決心・信仰の程度をきびしくためすこと。また、その時の苦難。」という意味があります。

 

だから、基本神は関わりがち。

 

だけど、現代社会で、「神は~」のフレーズが使われるときって、大概「上司」とか「取引先」「お客様」じゃない?試練を与えてくるの。

 

それって試練なんでしょうか?

 

無理難題とは違うの?

 

だからね、ここを間違えちゃいけないと思うんですよ。

 

このフレーズを使う場合、試練を乗り越えた先に何があるかと、その人がその試練を「選んだ」かを見極めないといけないと思うのです。

 

でないと、余計に苦しめてしまう。

 

もちろん、【自分で選んだから最後までやれ】というのも結構酷ではあります。

 

選んだけど、「こんな余計なものがついてくるとはおもわなかった」という場合だってあるし、想定外の妨害を受けることになったりもする。

 

それでも「君が選んだんだから」というのはちょっと違うかなと思う。

 

ぜーんぶ先に説明を受けていて「それでもやります!」って言えることはまずない。

 

あと、「神」からの試練だとしたら、きっと本人も気づくでしょう。

 

上司から「これやっといて」と言われるのとは訳が違うんだから。

 

そして、本当に神の試練なら、神がちゃんと乗り越えさせてくれるはず。

 

言ってみれば、スムーズに進むはずなんです。

 

そんなことを踏まえて、もう一回この言葉を分解してみると・・・

 

神は、乗り越えられる試練しか与えない

 

まず、現代社会で「神」に試練を与えられることはまれ。

 

「神」であれば、大いなる力でしっかりとコントロールして、最後は乗り越えさせてくれるだろうから、この言葉は成立する。

 

けど、大概は「人」が「人」に押し付けた無理難題や大きな課題。

 

できない量を押し付けられたなら、「いびり」。

 

本当にピュアに成長を期待され、サポートもしてくれるならその人は「神」に近い。

 

なのでやはり、この言葉を使うときは、ちゃんとこちら側も「今、この人には神の力が・・・」的なものを見極めるか、指導者であるならば最後まで見届ける覚悟で言わなければならないんだなぁと思いました。

 

あとやっぱりフワッとしているから、僕なんかの場合は「これ頑張れば、〇〇のオーディションとか受けれるんじゃない?」とか言ってくれた方が俄然やる気が出る。

 

完了