2つの連続主演公演が無事幕を閉じました。
ご来場くださいました皆様、配信でご覧頂きました皆様、誠にありがとうございました。
この2つの作品を振り返ってブログを書くには、時系列を追って述べることは難しく、話があっちに行ったりこっちに行ったり、するかと思いますが、いつも通り僕自身の気持ちの整理の為にここに書かせて頂ければと思います。
まず、
女優Cが芝居の“格”を決める
という清水邦夫先生のお言葉を目にしたところから話を始めたいと思います。
これは、清水先生が逝去された際にいくつかの追悼コメントの中で見つけた文言です。
再度女優Cを演じる上で一番考えたことは、リアリティです。
初演の時は、女優Cを僕は、伝説の女優、どこか空想上の生き物として演じていました。
この世界の厳しさはよく分かっているつもりだし、そんな中でも彼女は、本当の一握り中の一握りの存在であり、自分自身から遠く、想像力を働かせて、そこに自分を近づけるというアプローチを行っていました。
それが間違っていたということはありませんが、今回の一番大きな変化はそこではないかと思います。
彼女が語る「女優」「蓄積」が自分の中でファンタジーではいけないと思い、言ってみれば「それだけのことを言えるだけの俳優」でいようと決意して挑みました。
自分自身として女優Cに向き合う。
そして、一番最初に気づいたのが、自分を一番許していないのは自分自身であるということ。
「フェイス」の稽古に入る前に、僕はミュージカル作品に挑んでおりました。
何もできないところから、しっかりと指導をして頂き何とか舞台に立たせて頂きましたが、それでも当たり前ではありますが、ミュージカル俳優の皆さんには遠く及ばず。
舞台上に立って歌っているのが怖くて仕方ありませんでした。
だから、自分自身を納得させながら、「それでもお前は頑張っているよ」と励ましながらやっておりましたが、技術不足からくるミスも、厳しい意見も多く、精神的に疲弊しきっておりました。
何故、それでもやらなければいけないのか?
これは、冒頭に語るかもめのニーナのセリフに多大なる実感を与えてくれました。
さっそく話は脱線するのですが、「死ぬかと思った」と「死のうかと思った」は大きな違いであり、後者が続いたら、迷わず辞めるべきだなと思いました。
前者は、この2公演。
とてつもないスケジュールでの稽古・本番でしたが、やはりとても充実しておりました。
出来ないことが嬉しかった。
後者についてはあまり言及したくありませんが、どんなにやっても上手くいかず、出来ないことが絶望を生み、身体を硬直させ、また達成感を得られないまま、誰からも認められないまま進むことで生まれるのだと思いました。
これは、夏に出演する「SMOKE」という作品の役作りや台本分析にとてもつもなく役立つなと思っておりますし、恐らくこれを感じられたことで自分の俳優人生において、まったく人と違う表現を生み出してくれるのではないかと思っています。
「SMOKE」出演にあたり考えていることや、その後のことについてはまた改めてどこかでまとめようと思っているので、またこの2作品に話を戻したいと思います。
ですが、この纏わりつくどす黒い恐怖のようなものを生み出しているのは自分であり、自分が結局自分のパフォーマンスに一番納得していないのです。
僕は基本的にサボることが嫌いだし、継続することにも抵抗がありませんので、公演後に「もっと時間をかければよかった」「あの時サボっていたせいで・・・」という後悔を感じることはありません。
だからこそ、「あれだけやっても無理なのか」と思ってしまうのです。
女優Cもきっと、自分の中でずっと抱えている不安や焦燥感、何度やっても得られない達成感にずっと心を削がれていたのだと思います。
若いころは感覚で出来ていたものが、いつの間にかできなくなっていく、それを「衰え」という言葉で片づけつつも、受け入れることはできない。
女優Cは女優20年。
僕は、俳優18年。
非常に近しいものを感じ、心の底から彼女に共感し、舞台の中で彼女の【再起】と呼べるかは分かりませんが、「それでもこの世界で生きていく」に触れることが出来たのは、僕がこれからも俳優を続けられる誇りとなりました。
千穐楽のラストシーン、演劇を始めた当時の僕が、楽屋から出ていく直前の僕を呼び止めたんです。
涙が止まりませんでした。
女優Cに僕の演劇に対する愛をすべて込められた瞬間でした。
ここ数年、ずっと心の奥底で求めていた瞬間だったのかもしれません。
だから、あんな声が聞こえたのだと思います。
自分でもどんな表情をしていたのか・・・。
アーカイブを観るのが怖いですが、今回もDVDと配信は別の映像となりますので、よければアーカイブをご覧いただければと思います。
「フェイス」の千秋楽同様、今の僕の出来得る渾身の演技をお届けしたと思っています。
「フェイス」は4年ぶりの劇場空間での再演でした。
4年前は、脚本が稽古中に上がってくるスタイルでしたので、麗香のシーンが上がってきたときに、一度脳みそがパンクしました(笑)
拓海もめっちゃ喋るし・・・これ、間に合わないんじゃないかと正直頭を抱えました。
本番が迫る中で膨大なセリフを覚えなければいけない上に、稽古も進めていかなければならない。
その極限状態が生んだ緊張感と勢いで初演は上演されました。
まず、一番最初に不安だったのが、その2点が作品に及ぼしていた影響です。
これは、出そうと思って出せるものではなく、言ってみれば一種のトランス状態で駆け抜けた初演を僕はどこかで「奇跡」として扱っていました。
いや、あれは奇跡でした。
ですが、今回はそうはいかない。
しっかりと時間をかけて、作品を深めなければいけない。
ですが、これについては杞憂でした。
やればやるだけ、読めば読むほど、新しいことに気づける。
それだけに、ゴールと言うものが見えないなとも思いました。
これが出来たら完成というものがこの作品にはない。
目指し続けること、走り続けることが「フェイス」と向き合うことなんだと気づきました。
途方もない作品と出会ってしまった。
だけど、出会えてよかった。
初演の際は、セリフを正確に言うことで精一杯でした。
今回は、西森さんから「不安定でいることを恐れるな」というお言葉を頂き、とにかくそれを実践したつもりです。
だけどさ、不安定でいるってもんの凄く怖いことなんです(笑)
不安定でいたからと言って、心身を壊してはいけないし、ずっとヒリヒリした状態でいたくはない。
でも、そんなに簡単にスイッチを切り替えられるわけもなく、生きた心地のしない日々でした。
毎日不安でした。
夜中に叫んだのは、女優Cのやったことを実践したかったのではなく、このヒリヒリを振りほどきたかったからです。
不安定と社会生活の両立(?)これって、永遠のテーマなんじゃないかと思いました。
ですが、その甲斐あってか、今回は【キャラクターが勝手にしゃべっている】感覚を体験できました。
僕は、止めたいのですが、どんどん人格が出てきて、言いたいことを言って帰っていく。
でも、この言いたいことを言って帰っていくというのが僕の中ではとても嬉しかったです。
彼らを信頼して身体を預けて、きっとみんな色々思うところはあるけど、納得して帰って行ってくれたと思うから。
一樹は27歳。
女優Cは40歳。
一方からは離れて、一方には近づいて。
4年の蓄積と1年の蓄積。
無駄なものもたくさん身につけて、そんな中でも本当に素晴らしい宝物をたくさん頂いて、一番俳優として自信を喪失していた時期でもあり、でも、多分過去どの作品よりも命をかけて、全身全霊で挑んで・・・。
楽屋の千秋楽のあとに、マネージャーから「納得のいく千秋楽でしたか?」というLINEをもらいました。
今までそんなことを聞いてきたことは一度もないのに。
あぁ、色々とお見通しなんだなぁと思いながらも、僕は「はい。自分の演劇愛を詰め込めたラストでした。」と返しました。
なんてこっぱずかしいヤツなんだろうと思いましたが、「フェイス」も「楽屋」も、本当に納得のいく千秋楽でした。
きつかった。
ごめん、正直めちゃくちゃきつかった(笑)
肉体・精神ともに。
だけど、ただこの2公演をやり過ごすことだけは絶対にしないと決めていました。
時間は残酷です。
否応なしに、舞台に立ってしまえば、どんどんとシーンは終わっていく。
自分の身を守るために、楽な道を選んだとしても時間は止まらない。
何かを取り落しても、戻って取りに行くことはできない。
フェイスも楽屋も、様々な感情を同時進行させ、引っ張り合わせなければいけない役でした。
ちょっと気を抜くと一気にバランスを崩してしまう。
どちらも納得のいく演技が出来なかったら、今決まっている仕事全て土下座して降板させてもらって、休業するべきかもしれないと思ったこともありました。
これは、自分に課したプレッシャーとか制約とかそう言うものではなくて、自分が群雄割拠のこの世界に於いて「そこまでだった」ということ。
ここで乗り越えられなかったら、ずるずると半端な俳優として、業界に残ることになる。
それだけは嫌でした。
女優Cもきっと同じ気持ちだったと思います。
女優を名乗るなら、俳優を名乗るなら。
辞めたくないから頑張ったとか、そう言うことではないのです。
タイトルの通り役者としての誇りを取り戻すための戦いだったのです。
論語の始まりにこんな言葉があります。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。
人に認められようが認められまいが、そんなことを気にしてはいけない。
君子というものは、そういうことにこだわらない人のことである。
簡単に言ってくれちゃっていますが、それができるのは、誇りを胸に抱いている人間だけなんだと思います。
そのために、戦い抜いてきました。
死ぬかと思ったけど、死ぬつもりはなかったし、絶対にここまでくると決めていた。
そして、今日が来た。
時間が過ぎたのではなく、今日という日にたどり着いた。
そして、まだ見ぬ作品たちが隊列を組みつつ、立ち現れ、僕を戦場へと駆り立てる。
「楽屋」冒頭の鏡のつぶやき
日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱かないでほしい
悲しい日にはこころをおだかやにたもてば
きっとふたたびよろこびの日がおとずれようから
こころはいつもゆくすえのなかに生きる
いまあるものはすずろ にさびしい思いを呼び
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れる
そして流れ去るものはやがてなつかしいものへ
アレクサンドル・プーシキンというロシアの詩人の詩の引用です。
全てが通り過ぎたら、その時は全てが愛おしくなるだろう。
そう。
この日をずっと待っていた。
今はただすべてがいとおしい。
PS.後ほど明るく振り返るバージョンも書きます(笑)
最後まで読んでくれてありがとうございます。