はーい! プラスチック探偵のナオでーす。
今回も 人工心臓への挑戦者 のお話です。
今回の内容は、主に下記のサイトを参考にさせていただきました。
医療の挑戦者たち 21 | 医療の挑戦者たち | 企業広告 | 企業情報 | Terumo
医療の挑戦者たち 21
世界初の人工心臓
TERUNO JAPAN HPよりお借りしました。
1951年、まだ日本の大学で外科の医局員をしていたころ、阿久津は教授から人工心肺の研究をするように言い渡されました。
人工心肺をヒトの手術に使った最初の成功例は1953年、アメリカのギボンによるものであり、この当時はアメリカでも研究途上にありました。
阿久津は、このまったく新しいテーマが、実験を中心とした普通の研究とは大きく違うことに気づきました。
このテーマは医学者だけで完成できるものではなく、技術者の力を借りて、まず人工心肺という「モノ」を作らなければ進まないのです。
装置を作る材料、メカニズムや電気の知識…どれも医師の力だけでやれるものではありませんでした。
エンジニアも職人も偉大だ
まもなく二人のエンジニアが研究チームに協力してくれることになりました。
ひとりは戦争中に飛行機を作っていた物理学者で、機械に関する知識と技術力はすばらしく、もうひとりは大手電機メーカーの技師で、制御駆動装置の設計に大きな役割を果たしてくれました。
阿久津はチームでいちばん若いということもあり、図面を持って町工場へでかけ、職人に説明したり、ときには装置の組み立ても手伝いました。
そんな時、旋盤やフライス盤を器用にあつかう職人の見事な仕事ぶりに舌を巻き、「ものづくり」の喜びに触れることもありました。
阿久津にとっては、エンジニアも職人もとてつもない能力をそなえた尊敬すべき人たちだったのです。
チームが製作した人工心肺は、見事に動物実験に成功し、大手新聞社から科学奨励金を受けることもできました。
順風満帆に見えた研究。しかしその矢先に、頼みの教授が病気で急死したのです。
アメリカへ
後任の教授は心臓外科の専門ではなく、後ろ盾を失った阿久津は、思い切ってアメリカへの留学を決意します。
アメリカではすでに人工心肺を使った手術が試みられているという情報も入っていました。
願書を出したクリーブランドの研究所から、研究員として受け入れるという返事が来ると、阿久津はすぐにアメリカへと飛び立ったのです。
人工心肺の研究をしていたということで、研究所での配属先はコルフ博士が部長を務める人工臓器部となりました。
しかし当時の人工臓器といえば人工腎臓が主流であり、心臓外科医は、阿久津ひとりでした。
コルフ研究室にきてまもなく、朝のミーティングで阿久津がスピーチをすることになった。
阿久津は「心臓外科の行きつくところ」というテーマで、重症の心不全を救うには、「心臓移植か人工心臓を用いて、心臓そのものを取りかえるしかない」と話した。
この話題には他の研究員も興味を持ち、「人工臓器部として取り組むのであれば、人工心臓が目標になるのではないか」という方向に話がまとまってきたところで、コルフが結論を出しました。
「それを心臓外科の君にまかせようと思うがいいね」
これで阿久津の研究テーマは決定されたのです。
「とにかく、本物の心臓とそっくりなもの」を目標に、阿久津は職場を研究室から、工作機械が並ぶ作業場に変えました。
粘土をこね、石膏を流し込み、油にまみれて金属を削り、 昼も夜もなく働き、すべての部品を手作りしたのです。
動物実験成功!
その鼓動は人工心臓時代の幕開けを告げた
1958年1月、塩化ビニル製の心臓は、まるで生きているかのようにブルッと震えると、規則正しく動き始めたのです。
実験室につめかけたアメリカ人研究者たちの間に、歓喜の拍手が起きました。
「世界初の人工心臓、アクツハートが動物実験に成功!」
ニュースは全米に、そして世界に発信されました。
ヒトに使える人工心臓をつくるために
壁にぶつかった人工心臓の開発
阿久津は動物実験成功のあと、本格的な人工心臓を開発するための要素について検討を進めました。
阿久津は人工臓器の開発にあたって、考えるべき三つの要素があると述べています。
- 基礎材料
- 使用するエネルギーとその変換様式
- 制御の方法
① 基礎材料: 動物実験に成功した人工心臓は塩化ビニール製でした。しかし血液の凝固が避けられないという問題が残りました。他の素材を探していたところ、タイヤメーカーから新素材・ポリウレタンの提案がありました。これは使いこなすのに苦労しましたが、塩化ビニールよりは良い感触が得られました。
② エネルギーの問題: 最初の人工心臓は空気を送ることで拍動させるタイプでしたが、調節が難しいため、小型モーターや電磁石も試してみました。
③ 制御の方法: どのエネルギーを使うにしても、それを制御する方法はなかなか見つからず、開発は壁にぶつかってしまったのです。
NASAの協力で多くのタイプの人工心臓を作る!
1960年、NASA(米国航空宇宙局)の研究所から阿久津のプロジェクトへ無償協力の申し出がありました。
NASAはそのころ、月へ人を送る「アポロ計画」の準備中でしたが、人類に役立つことなら何でもするという基本思想を持っていました。
そして、問題の制御方法については、当時としては画期的なセミ・オートマチックの制御駆動装置が開発され、人工心臓づくりは前に進み始めたのです。
やがていろいろなタイプの人工心臓が相次いで開発され、1962年、動物の生存時間1日の壁を破り27時間という記録をたたき出しました。
そして、基礎材料はシリコンゴム、ポンプは空気駆動、制御はNASAの装置という形に落ち着き、1964年、動物の生存を31時間まで伸ばすことに成功したのです。
ついにヒトへの植込みに成功
阿久津はやがてクリーブランドを離れ、ニューヨークへ、ミシシッピへ、さらにテキサスの研究所へと移りました。
そして1981年、ヒト臨床用の人工心臓「アクツ・モデルⅢ型」を開発するのです。
材料は、ポリウレタンとシリコンゴムを結合させた新素材、空気駆動で、制御駆動装置は新たに開発しました。
1981年、重症心不全の男性にその人工心臓を植込み、その54時間後の心臓移植にも成功するのです。
心臓移植が終わった後の人工心臓を調べてみると、血液凝固はどこにも発生していませんでした。
阿久津はこれを最後に、その年、日本へ帰国しました。
TERUMO HPよりお借りしました。
阿久津が製作した初期の人工心臓
TERUMO HPよりお借りしました。
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人工心臓の開拓者 阿久津哲造氏のチャレンジ物語は以上です。
その後、この人工心臓の開発はどうなっていったでしょうか。
全置換型人工心臓と補助人工心臓
阿久津が始めた人工心臓の開発は、実際の心臓の模倣から始まりました。心臓を取り出し、代わりに機械を植込み、永久に使用できる人工心臓とするのが目標です。これは全置換型人工心臓(TAH: total artificial heart)と呼ばれ、阿久津が動物実験に成功したのもこのタイプだったのです。
1967年、世界初の心臓移植手術が南アフリカで成功すると、これが人工心臓の役割に大きな変化をもたらします。
1969年、心不全の男性への全置換型人工心臓の臨床応用が、テキサスの心臓研究所に所属する医師・クーリーらにより世界で初めて成しとげられます。
当時は、動物実験でも生存期間は3日間しかなかったので、ヒトに使われたことは驚きをもって受けとめられました。
しかし、クーリーにはわずかながら成算がありました。
人工心臓の植込み手術が終わると、移植可能な心臓の提供を社会に呼びかけたのです。
患者の妻がテレビで視聴者に哀願したこともあり、「移植できる心臓をさがして患者を救え」という気運は全米で盛り上がりました。
そして、幸いにも64時間後に脳死患者から心臓が提供され、人工心臓と取り替えられました。
残念ながら、患者は拒絶反応で死亡しましたが、人工心臓を移植心臓が見つかるまでのつなぎ(ブリッジ)として使うという新しい発想は、人工心臓の存在意義に、大きな新しい展望を加えることになったのです。
実用性にすぐれた補助人工心臓が主流に
人工心臓の開発目標は、やがて全置換型ではなく、補助人工心臓(VAS: ventricular assist system)へと移っていきました。
補助人工心臓は、病気の心臓をそのまま残し、その心臓の働きを助けるタイプです。
全置換型人工心臓より後から考えられましたが、現在ではこれが主流となっているそうです。
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阿久津哲造氏 戦前に生まれ、戦中を生き抜き、戦後にアメリカにわたり、世界初の人工心臓を創り出す!
医師であるばかりでなく、技術としてモノづくりの大切さを知った阿久津氏は、後年、TERUMOという巨大な会社の経営にも携わります。
尊敬すべき人物であったに違いないと思います。
はい! 今回はここまでです。
それじゃあ、またね。