はい! 奈央です。
今回は、若戸大橋の袂からお届けしまーす。
夜の若戸大橋
北九州市時と風の博物館HPよりお借りしました。
若戸大橋とは・・・
北九州市の若松区と戸畑区の間、洞海湾の入り口に架かる長さ627mの吊り橋です。
1962年(昭和37年)の開通当時、日本一はもとより、
東洋一の長さを誇り、日本における長大吊り橋の先駆けと賞されました。
2022年、国の重要文化財に指定されました。
2023 夜景サミット 日本新三大夜景都市 第一位受賞
北九州・工場夜景 動画時間:6分36秒
空撮、鉄の街北九州・・洞海湾の混沌と若戸大橋
動画時間: 5分57秒
毎日5万台以上の車が、国の重要文化財の上を通っているのですね。
もう一つ、この若戸大橋の下には、黒田長政が築いた
「六端城」の一つ「若松城跡」が眠っています。
黒田長政
国史跡 福岡城・鴻臚館HPよりお借りしました。
六端城
26.4.5.六端城 (mokuyobe.sakura.ne.jp)よりおかりしました。
六端城とは・・・
関ヶ原の戦いの翌年、1601年、福岡藩初代藩主の黒田長政が、福岡城築城とほぼ同時期に、藩内六ケ所に築城・改築された城が「六端城」です。
関ケ原の戦い後、恩賞として、豊前12万5千石から筑前52万3千余石への国替えの際、長政が豊前で徴収した年貢を全て筑前に持ち去ったため、後から豊前・豊後の二郡(国東郡、速見郡)33万9千石の領主として小倉に入った細川忠興が激怒しました。
当時の作法では、年貢は前地に置いていかなければいけなかったようです。
この年貢持ち去りを機に黒田家と細川家は不仲になったと言われています。
このことから豊前細川領との国境警備の目的で、若松城、黒崎城、鷹取城、益富城、小石原城(松尾城)、及び麻氐良(まてら)城の六つのお城を築城・改築しました。
若松城には、黒田二十四騎の一人、三宅若狭守家義が三千六百石と代官領一万石で城主となり船手頭を務めました。
若松城
九州の温泉、山、名水HPよりお借りしました。
元禄十二年(1699年)の頃にはもうすでに中嶋「古城」と書かれていますから、廃城になっていたのでしょうか?
「日本城郭大系18」によれば、元和元年(1615)に若松城は破却されたそうです。
江戸幕府の時代になって、黒田家と細川家とのいざこざは治まっていたのでしょうね。
細川氏は、寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広の改易により、その後を受けて熊本54万石に移封されています。
『元禄十二年若松附近古地図』 1699年
クー_九州北部 史跡・自然散策さんのXよりお借りしました。
伊能忠敬の伊能図にも、中島としっかりと描かれています。
江戸時代の末期、文久三年(1863)に砲台が築かれ、明治以降は造船所や貯炭場がつくられて人家も66件あったそうです。
伊能忠敬の伊能図 洞海湾付近 1800-1816年
筑紫のしろのきHPよりお借りしました。
そして、大正11年(1922年)~昭和2年(1926年)のマップに描かれた中島は、長径300m、短径100m、周囲約1kmだったそうです。
今昔マップ1922-1926年
クー_九州北部 史跡・自然散策さんのXよりお借りしました。
昭和十四年(1939年)、洞海湾改修工事が始まります。
中島は船舶の運航に邪魔として削られ、昭和十五年(1940年)には完全に削平されました。
こうして若松城跡は永遠に失われました。
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若戸大橋って、色々な歴史を経て変貌してきた洞海湾の象徴みたいなものですね。
そして、近代における変貌に大きく関わってきた企業が、今、私がいる場所の隣にある若築建設なんです。
ここには、その歴史を紹介する「わかちく史料館」があります。
次回は、この「わかちく史料館」をご紹介したいと思います。
それじゃあ、またね。