はい! 奈央です。
久しぶりのお出かけ系のブログです。
先日、関東の企業様を訪問したことを書きました。
その帰り道、京都に降りて、近江へと向かいました。
京都駅のコンコースは、若い人たちや外国からの旅行者達で溢れかえっていました。
そういえば、数年前にこんな感じで京都にやってきたことを思い出しました。
6年も前の事だったんですね。
あの時も外国人の旅行者が多くて、バスにも乗れず、結局、あまり観光客が来ない静かな道を歩いて散策しました。
でも、今回は、明確な目的地があります。
それは、大津京と近江神宮です。
大津京
飛鳥の扉HPよりお借りしました。
663年の白村江の戦いの後,667年3月、中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。
668年1月、中大兄皇子は天智天皇として即位されました。
遷都の理由は諸説あります。
白村江の戦いで敗戦しているため、唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため、飛鳥の有力豪族との関係、琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり、6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからなど様々です。
天智天皇は天皇を中心とする中央集権国家を目指しましたが、遷都5年でこの世を去り,この後に起こった壬申の乱によって都は再び飛鳥に戻されました。
大津に都があったのはわずか5年間でした。そのため、大津京の場所を特定することが難しかったのですが、昭和49年と53年の調査によって、錦織二丁目地域内に古代の建物の柱跡が見つかり、その配列や規模からここが大津宮の中心部分とされました。
昭和54年には柱跡が発見された場所を「近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこうりいせき)」として国の史跡に指定されています。
近江神宮
競技かるたの聖地! 近江神宮
animate Times HPよりお借りしました。
えへっ。
失礼しました。
でも、本当の所、「ちはやふる」の大ファンでした!
ここでのもう一つの目的は漏刻を見ることです。
日本で初めて時計を作ったのは、『日本書紀』に記されている天智天皇の水時計(漏尅・漏刻:ろうこく)と伝わっています。
【日本書紀】
斉明天皇6年(660年)5月 (後飛鳥岡本宮遷都から4年後)
有皇太子初造漏剋。使民知時。
[意]
天智天皇が太子のときに漏刻をつくり民に時刻を知らせた。
【日本書紀】
天智天皇10年(671年)4月25日 (近江大津京遷都から4年後)
置漏剋於新臺。始打候時。動鍾鼓。始用漏剋。此漏剋者天皇為皇太子時、始親所製造也。云々。
[意]
漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲(ましま)す時に、始めて親(みづか)ら製造(つく)りたまふ所なりと、云々
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以前、福岡県糸田町にある泌泉(たぎり)が、天智天皇が作られた漏尅なのでは?という福永晋三氏の説をご紹介しましたが、従来から知られている近江神宮の漏刻を自分の眼で見て確かめたくなったからなんです。
さあ、それじゃ、行ってみましょう!
先ずは、人だかりをかき分けて、湖西線のプラットフォームまで行かなくっちゃ!
それじゃあ、またね。