はーい! プラスチック探偵のナオでーす。
セルロイドの最終回でーす。
セルロイド人形のつもりかニャ?
今回のテーマは、日本のセルロイド工業の歴史です。
今回の話は、以下の資料を参考にさせていただきました。
日本のセルロイド工業の発祥
吉兼正能 株式会社ダイセル研究開発本部研究推進部
化学と教育、66 巻1 号(2018 年)
セルロイドの重要な原料である樟脳は,古くから台湾や西日本で栽培されていたクスノキから製造された。1895年(明治28年),日本は日清戦争の結果,台湾を統治下におき,政府は樟脳を重要な輸出品として統制と育成を行った。
その当時は,樟脳を外国に売り,それによって造られたセルロイド生地を輸入して加工していた。そこで,セルロイド生地を国産化し,生地や加工製品を輸出しようという構想が練られた。
工業立国を目指す明治政府の意向に沿ったものであり、20 世紀に入り財閥を中心に2つの大きな潮流が起こった。
堺セルロイドの設立
潮流の1つが,1908年(明治41年)、三井家の出資によって設立された堺セルロイドである。
アメリカ式の工場を建設すべく米人化学技師アクステル(F. C. Axtell)が5 年契約で招聘され,1910 年、写真2 の本社工場が完成した。鉄筋レンガ造りで内部には消火用スプリンクラーも備えた優秀な建物であった。
堺セルロイド本社工場(1910 年頃)
日本セルロイド人造絹糸の設立
もう1 つの潮流は,同じく1908年(明治41年)、三菱家,岩井商店,鈴木商店の出資により設立された日本セルロイド人造絹糸である。
翌年,姫路市の網干に工場が建設され最新鋭の設備が設置された。下の写真は当時の石炭ボイラー建物である。水蒸気でタービンを回し発電が行われた。
工場操業にあたり,イギリス人の技師長とドイツ人5名の技術職工が招かれ,彼らの住宅として洋館が建設された。
日本セルロイド人造絹糸 1909年完成の石炭ボイラー建物
1915年、堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸は、サンフランシスコ万国博覧会にセルロイド人形を出品した。
サンフランシスコ万国博覧会(1915年)
出品されたアメリカ帰りのセルロイド人形
㈱ダイセルHPよりお借りしました。
こうして,大いなる期待をもってセルロイド製造が開始されたが,両社とも当時の技術では十分な品質の製品ができず,経営的に大変な苦境に陥った。
こうした事態に両社とも外国人技師たちは何ら解決策を示さなかったことから解雇し,邦人技術者が苦労に苦労を重ね苦境を乗り切った。この時活躍した技術者は,明治政府の科学技術振興政策によって育てられた人材であった。
セルロイド工業の隆盛
第1次世界大戦(1914~1918 年)の特需により日本のセルロイド産業は本格化し,多くの会社が参入し盛況を呈した。
ところが,第1次世界大戦が終わるや反動不況に見舞われ,セルロイドも世界的な需要減少で過当競争となった。
1919年,セルロイド会社8 社が合併して大日本セルロイド(現,ダイセル)が設立された。
各社の優秀な技術を集めることで能率や品質の向上が図られ,加工技術の開発や海外進出の拠点整備も行われた。その後も,歴史の流れの中で,恐慌など幾多の経営的な困難に遭いながらもそれらを乗り越え,1937年に我が国は世界一の生産量(世界の40%)と品質を誇るに至った。
日本のセルロイド生産量
岩井薫生 セルロイドと高分子プラスチック産業~栄枯盛衰のドラマ~ Polyfile 2013.3よりお借りしました。
第2次世界大戦後の衰退
第2次世界大戦後,セルロイドは石油化学樹脂の隆盛に押され,製造技能者の高齢化もあって,1996年、セルロイド生地の国内生産の幕は閉じられた。
創業から88年目のことであった。
セルロイドの事業・技術は,写真フィルム(1934年、現:富士フィルムの設立)やセルロース化学,合成樹脂,火薬関連などの事業分野に展開され,その後の日本の化学産業発展の源泉となった。
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日本のセルロイド工業の歴史って、日本の化学工業の牽引の一端を担っていたんですね。
そして、現代の著名な企業として存続しているって凄いですよね。
はい! 今回はここまでです。
それじゃあ、またね。