はい! 歴史オタクの奈央です。

 

ここは何度も来ています埴生(はぶ)神社のある垣生(はぶ)公園です。

はぶはぶと紛らわしいですね。ニヤリ

 

いつもの赤い欄干の太鼓橋です。

 

実は、この垣生公園の隣に野球場があります。

その名も、中間仰木彬記念球場っていうんです。

 

 

「イチロー」を誕生させた名監督 仰木彬

週刊ベースボール ONLINE HPよりお借りしました。


昭和29年西鉄に入団して、堅実な守備で1年目からレギュラーとなる。

現役引退後近鉄のコーチを18年つとめ、昭和63年監督に就任し、翌年には西武、オリックスとまれに見る混戦を制して優勝を果たした

平成6年オリックスの監督に就任すると、二軍から鈴木一朗を登用、登録名を「イチロー」に変更して、開幕から起用した。

平成7、8年とパ・リーグ2連覇し、8年には巨人を破って日本一となった。

 

中間仰木彬記念球場

GG安倍の八幡電材BLOG HPよりお借りしました。

 

もう少し詳しい略歴をご紹介します。

 

仰木 彬(おおぎ あきら、1935-2005年)中間市出身
 教員をしていた両親の間に生を受ける。

 父が太平洋戦争にて早世し、少年期は厳格な母の手一つで育てられた。

 

 1954年福岡県立東筑高等学校から西鉄ライオンズ投手として入団。期待の超大物ルーキーだったが、フリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原脩監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」と、その場でセカンドにコンバートされた。しかし、急造の内野手であったにも関わらず1年目からレギュラーに定着して好守備を見せ、以降長きに渡り中西太豊田泰光と共に西鉄黄金時代の内野陣を支えた。

 また当時から三原とは野球理論について議論を交わしており、ベンチで三原の横に座っては指導者としての基礎を学んでいた。この時の経験が、後の監督時代に芽を吹くことになる。

 

 1967年限りで現役を引退し、その後は2年間西鉄のコーチ近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。

 1980年代から90年代にかけて、10.19と呼ばれた名勝負や、阪神・淡路大震災後にがんばろうKOBE』を合言葉に快進撃を果たし、率いたチームを11年連続でAクラス入りさせたことで知られる。

 

 1994年オリックス・ブルーウェーブの監督に就任した。オリックスでは、二軍生活を続けていたイチローをすぐに一軍で抜擢し大活躍させ、前任の土井正三監督時代から遊撃手として期待されながらイップスに陥っていた田口壮を、外野手として起用し成功させるなど、土井時代に停滞していた才能を次々に開花させた。

 さらに、「猫の目打線」と呼ばれた日替わり打線を中心として特徴的な采配を振るい、就任1年目に2位に浮上させた。

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野球と云えば、ホークス!という福岡県にあって、仰木監督は、イチローを育てた人!ということは誰でも知っていましたが、まさか、中間市出身だったなんて!びっくり

 

おそらく、中間市出身以外の福岡県の方はあまり知らないかもしれませんね。えー

 

 

中間市では、2016年から中間市内の4中学校と、福岡県内から招待した中学校12校による仰木彬記念野球大会を開催しているそうです。

 

 

高倉健さん仰木彬さんも同じ東筑高校出身です。

東筑高校は、北九州では有名な進学校なんです。

 

高倉健さんが4歳年上なので、仰木彬さんと重なることはなかったみたいですね。

 

 

それに高倉健さんは、高校時代はボクシング英語に関心があり、ESS部を自ら創設して英語力を鍛えていたそうです。

 

一方、仰木彬さんは、野球部のエースとして、夏の甲子園初出場を果たします。

 

 

そんな二人も、子供の頃は、ここ垣生公園で遊んだこともあったことでしょうね。

 

そんなことを想いながら、散策しました。

それじゃあ、またね。