はい! 奈央です。

 

天草コレジヨ館を出た後、潜伏キリシタンの郷 崎津集落 に向かいました。

 

崎津天主堂

天草宝島観光協会HPよりお借りしました。

天草コレジヨ館HPよりお借りしました。

 

 崎津に到着した私は、さっそく崎津教会に向かいました。

ところが、狭い漁村の道路に多くの観光客が車でやってきており、駐車場はもちろんの事、離合にする難儀するほどでした。

 警察が出動して交通整理に当たっておられました。

 

 これは無理だわ。そう思った私は、崎津教会が見える対岸に向かいました。

 向かう途中、道の駅があって、そこでは崎津集落の説明がパネルで紹介されていました。

 

世界宗教史上の奇跡がここに!

 1549年フランシスコ・ザビエルによって日本に伝わったキリスト教は海外交渉の窓口であった長崎・天草地方に瞬く間に広がり、宣教師から直接指導を受けたことで他の地域よりも強固な信仰組織が形成されました。

 1644年には、江戸幕府の海禁政策によって全ての宣教師が日本国内から不在となりますが、多くのカトリック教徒は仏教徒や神道信者のように振舞いながら、小規模な信仰組織を維持し潜伏キリシタンとなりました。彼らは信仰組織ごとに海岸沿いや離島に集落を形成しながら進行を維持します。そして250年にわたる禁教のなかで、日本の在来宗教のように見える固有のキリスト教信仰が育まれました

 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は、250年以上にわたる江戸幕府の海禁政策の中で、潜伏キリシタンが密かにキリスト教信仰を継続し辺境や離島で既存社会や宗教と共生しながら、独特の文化的伝統を育んだことを物語る文化遺産です。

 

「天草の崎津集落」の特徴

 天草の崎津集落は、仏教、神道、キリスト教が共存し、生業とキリスト教信仰が密接に結びついている集落です。

 崎津の住民は、ゼウスを豊漁の神として崇拝したり、アワビやタイラギの貝殻内部の模様を聖母マリアに見立て崇敬しました。また白蝶貝の螺鈿を用いてメダイ(メダル)を作成するなど漁村特有の信仰が育まれた集落です。

 集落の中には、「水方(みずかた)」と呼ばれる信仰指導者の屋敷跡や潜伏キリシタンが発覚する天草崩れの舞台となった崎津諏訪神社絵踏みという日本独自のキリシタン弾圧が行われた崎津吉田庄屋役宅跡(現在の崎津教会建設地)など弾圧・潜伏時代の痕跡が残っています。

 

天草崩れ  宗門心得違い事件 

     *天草探見HPより転載させていただきました。

 崎津を含む、隣村の今富村大江村等で天草支配層を震撼させる衝撃の事件が起きた。
 後に宗門心得違いあるいは天草崩れと呼ばれる事件である。
 天草島原一揆(天草島原の乱・寛政十四年~十五年)から165年後の享和三年(1803年)のことであった。

 享和三年今富村(現在の天草市河浦町今富)付近に密かに、邪宗門を信じる者があるとの風聞が流れた。その一つの怪しきものとして、牛殺しが行われたというものである。当時、牛馬は農耕にとって欠くべからざるものであり、かつ仏教の精神によって、牛馬を殺すことは法度であった。
 牛を殺すのは、キリスト信徒が、祝日に牛肉を神前に供え、これを食するという習わしがあったためである。
 そこで今富村庄屋上田友三郎に、内情探査をさせ、同時に志岐村国照寺の大成もまた陣屋の内命を受け同地に赴いて、共に家々の臨検説法を行なった。

 邪宗門とは勿論キリスト教である。

 

 幕府は、天草島原の乱後、最大施策として、キリスト教禁止を掲げ、乱から165年経った当時でも、度々の禁止お触れや、廻村を行い宗門改めと称する絵踏みなど、その取締に余念がなかった。それでも、隠れ信者が潜んでいたということで、当時の為政者の驚きは大変なものであった。


 当時の天草は、島原藩預かりであった。この対策如何では、藩の取り潰しにまで発展する恐れすらあったのである。
 文化元年2月2日~26日 上田友三郎は、探索を進め、2日には信者嫌疑者として25名牛殺し嫌疑者として9名を挙げたのに続き、26日にはさらに26名を富岡役所へ報告する。
 
 探索を続けていくうちに、今富村のみならず、隣村の大江村、崎津村でも信者がいることを発覚した。これまで内々に進めていた探索が表ざたとなる
 そして島原藩はこれらの嫌疑者を検挙することにし、吟味奉行が出役する。さらに、吟味奉行は、山方役や大庄屋を陣屋に招集し、取り調べを本格化する。

 更に、上田友三郎の兄である高浜村庄屋・上田宜珍高浜村にまで、信者がいることが分かった。
 現在でいう被疑者・容疑者を富岡陣屋まで出頭させ、取り調べを行った結果、ほぼ全容が解明する。
 この事案に対して、大きな事件に発展することを恐れた当局側は、検挙し罰則を与えるということでなく、誤りを糺すという方針をもって臨んだことは幸いであった。
 それは、取り調べに当たって、拷問を与えたりするのではなく、密かに宗教的異物を持っている者は、それを夜半こっそりと、指定したところへ投げ込めさせたり、諄々とあなたたちは間違った教えを信じていると説諭したことである。


 この方策を立て、当局にそれを実行させたのは上田宜珍だと言われている。その結果、心得違いということで改宗させて事なきを得た。
 最終的に心得違いの者は5205人にも及んだ。村ごとの割合は表の通り。

 心得違い者数
 村 名  隠れ信徒  総村人高  比 率
 信徒/村人
      (%)
 人数 戸数   人数  戸数
 大江村  2,132  441  3,143  569  67.8
 崎津村  1,710  不明  2,401 209  71.2
 今富村  1,047  不明  1,836  159  57.0
 高浜村  316  88  3,320  579  09.5
 合 計  5,205    10,700  1,513  48.6
 資料・「宗門心得違い事件」より 比率は筆者計算
    崎津村の人口は3,143人説もある

天草探見HPよりお借りしました。

 

住民の半分以上が信徒だなんて、驚いたでしょうね。びっくり

全員を処罰していたら、村が亡くなってしまうか、島原の乱のような一揆が再発したかもしれませんね。

 

天草市崎津の文化的景観

崎津の漁村景観

 羊角湾の北側に位置する崎津は、歴史的に流通・往来の拠点として、現在は主に漁港として機能しています。平地の少ない密集集落内には、家と家の重なり合った軒先を通るトウヤと呼ばれる小路が海に向かって伸び、その先には今富のシュロや竹を材料に海に張り出して設置される漁師の作業施設であるカケなど、独特の漁村景観が広がっています。

 

 下の写真が、対岸から撮った崎津教会です。

崎津教会を拡大して撮影しました。

あそこに弾圧の現場である庄屋役宅があったのですね。

正面から見た崎津教会です。

天草宝島観光協会HPよりお借りしました。

 

崎津諏訪神社

 豊漁・海上安全を願い、1647年に創建されたと伝わる神社です。
 禁教時代潜伏キリシタンはこの神社の氏子となり、参拝の際には密かにオラショ(お祈り)を唱えていました。長きにわたって密かな信仰を守るために、重要な役割を果たした場所です。

 1805年天草崩れでは、潜伏キリシタンたちが持っていた信心具を差し出すように指定された場所でもあります。

もっと、もーっと!くまもっと。HPよりお借りしました。

 

現在の崎津には、マリア様海上のマリアを前にした岩の上に立っておられます。


もっと、もーっと!くまもっと。HPよりお借りしました。

 

はい! 今回はここまでです。ニコニコ

残念ながら、ここで自撮りはできませんでした。
 
撮影していた場所で、車いすの老女を甲斐甲斐しくお世話する若者が居て、二人が対岸の崎津教会を見つめていた姿が記憶に残っています。
 
次に、もう一つの潜伏キリシタンの郷 大江教会 に向かいました。
それじゃあ、またね。